大判例

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仙台高等裁判所 昭和34年(う)641号 判決 1963年5月08日

本籍ならびに住居 岩手県二戸郡一戸町大字小繋字小繋六五番地

農業 山本清三郎

大正六年一一月二〇日生

本籍ならびに住居 岩手県二戸郡一戸町大字小繋字小繋六五番地

農業 山本ヨシノ

昭和二年二月二七日生

本籍ならびに住居 岩手県二戸郡一戸町大字小繋字小繋四八番地

農業 小川市蔵

明治三三年三月一日生

本籍ならびに住居 岩手県二戸県一戸町大字小繋字小繋四九番地

農業 立花金作

明治四五年三月一四日生

本籍ならびに住居 岩手県二戸郡一戸町大字小繋字小繋一〇〇番地

農業 山本満雄

昭和九年九月一八日生

本籍ならびに住居 岩手県二戸郡一戸町大字小繋字小繋一〇〇番地

農業 山本定蔵

明治三五年六月一二日生

本籍ならびに住居 岩手県盛岡市狐森六番地の二

日本共産党役員 斎藤実

大正一五年四月二七日生

本籍 広島県安芸郡上蒲刈島村四、六九四番地

住居 岩手県盛岡市八日町四六番地

無職 藤本正利

昭和四年八月二一日生

右被告人山本清三郎、同小川市蔵および同立花金作に対する封印破棄、窃盗、森林法違反、被告人山本ヨシノに対する封印破棄、窃盗、被告人山本満雄に対する封印破棄、窃盗、森林法違反、強盗、被告人山本定蔵、同斎藤実および同藤本正利に対する森林法違反各被告事件について、昭和三四年一〇月二六日盛岡地方裁判所が言い渡した判決中被告人山本清三郎、同山本ヨシノ、同小川市蔵、同立花金作および同山本満雄に関する有罪部分に対し当該被告人から、被告人山本清三郎、同小川市蔵、同立花金作および同山本満雄に関する森林法違反の無罪部分ならびに被告人山本定蔵、同斎藤実および同藤本正利に関する部分に対し検察官相沢二平からそれぞれ控訴の申立があつたので、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

原判決中被告人山本ヨシノを除くその余の被告人らに関する部分を破棄する。

被告人山本清三郎、同小川市蔵、同立花金作および同山本満雄を各懲役一〇月に、被告人山本定蔵を懲役八月に、被告人斎藤実および同藤本正利を各懲役六月に処す。

ただし、本裁判確定の日から二年間右各刑の執行を猶予する。

被告人山本清三郎、同山本ヨシノ、同小川市蔵、同立花金作および同山本満雄の各控訴を棄却する。

理由

本件控訴趣意は、検察官相沢二平、被告人山本清三郎、同山本ヨシノ、同小川市蔵、同立花金作および同山本満雄各名義の控訴趣意書、弁護人岡林辰雄および同竹沢哲夫連名の控訴趣意書記載のとおりであり、右検察官の控訴趣意に対する答弁は、弁護人岡林辰雄名義の「検察官の控訴趣意に対する答弁要綱」と題する書面記載のとおりであるから、これを引用する。

以上の控訴趣意に対する当裁判所の判断は、次のとおりである。

(第一)被告人山本清三郎、同山本ヨシノ、同小川市蔵、同立花金作の各控訴趣意、被告人山本満雄の控訴趣意第一点および岡林、竹沢両弁護人の控訴趣意第一点について、

原判決の挙示する証拠によると、原判決の判示した罪となるべき事実中冒頭および第一の(一)(二)の各事実は、これを肯認するに足り、記録を精査しても、原判決の事実認定に誤があるとは認められない。

(一)、被告人山本ヨシノおよび岡林、竹沢両弁護人は、原判示第一の(一)の事実につき、被告人山本ヨシノは、本件仮処分執行当時小繋山に赴いていて、右執行の事実を知らず、かつ、夕刻帰宅して公示札の板を認識したが、それがいかなる内容のもので何を標示したものかについては全く認識がなかつたのであるから、「右差押の事実および楢薪の占有が執行吏に移つたことを知りながら」との原判決の認定は、事実に反すると主張する。しかし、原審第一二回公判調書中証人佐々木村蔵、同太田豊彦および同立花与四郎の各供述記載≪中略≫によると、同地方裁判所執行吏太田豊彦は、昭和三〇年三月一九日午後二時二〇分ころ、申請人鹿志村亀吉、被申請人山本清三郎ほか二名間の同裁判所昭和三〇年(ヨ)第四〇号同年三月一六日付仮処分決定を執行するため、係争物たる楢薪の積まれている被告人山本清三郎方前に臨み、立ち会つた被申請人の同被告人に対し、右仮処分決定正本を示し、その内容を説明し、該決定を執行する旨を告げたうえ、同被告人の右楢薪に対する占有を解いてこれを同執行吏の占有に移すこと、右楢薪の移動搬出などの同執行吏の占有を侵害する行為いつさいを禁止すること、その占有を侵害しまたは公示札を移動破棄するときは刑罰に処せらるべきことなどを墨書した横約六〇糎、縦約三〇糎、厚さ約一糎の公示札に長さ約一・五〇米の棒木を取りつけたものを人夫佐々木村蔵をして右楢薪の横側上部に釘で打ち込ませて、差押の標示を設置し、なお、口頭をもつて同執行吏の右楢薪に対する占有を侵害し、右公示札を移動破棄するときは刑罰に処せらるべき旨を関係人に諭告したのであるが、被告人山本ヨシノは、被申請人の被告人山本清三郎の妻であつて、右仮処分執行の際その現場に居合わせていたこと、被告人山本ヨシノは、その日の午後五時ころ山から薪を背負つて帰つて来て右執行の現場にいたり、同所で薪を降ろし、「なんだ、こんなまねをして」などといいながら、両手で前記楢薪に釘づけにされている公示札をはぎ取つて、これを付近に投げ捨てたことが認められる。以上の事実から考察すると、被告人山本ヨシノは、前記楢薪につき仮処分が執行されたこと、その楢薪に打ちつけられている札がその仮処分の公示札であることを知り、かつ、その仮処分の趣旨を理解していながら、右公示札をはぎ取つて捨てたものと認めるのを相当とする。

(二)、被告人立花金作および同山本満雄は、原判示第一の(二)の事実につき、本件仮処分の事実を知らなかつたといい、岡林、竹沢両弁護人も、同事実につき、右被告人両名は、右仮処分および前記楢薪の占有が執行吏に移つた事実を知らなかつた旨主張する。しかし、(一)で引用した証拠に被告人立花金作の検察官に対する昭和三〇年一〇月二七日付供述調書≪中略≫を綜合すると、右被告人両名もまた前記楢薪につき仮処分が執行された際、その現場付近に居合わせ、その執行の状況を見て、右仮処分執行の事実および該執行によりその目的物が前記執行吏の占有に移り、その移動等を禁止された事実を知つたことが看取される。

(三)、被告人小川市蔵および岡林、竹沢両弁護人は、原判示第一の(二)の事実につき、被告人小川市蔵が前記楢薪を貨物自動車に積載するについて被告人山本清三郎らと共謀した事実も、その積載を手伝つた事実もないと主張する。しかし、原審第一二回公判調書中証人立花与四郎の供述記載≪中略≫によると、被告人小川市蔵は、畑山末吉ほか一名が被告人山本清三郎方前にある仮処分にかかる楢薪を貨物自動車に積み込む際、被告人山本清三郎、同立花金作、同山本満雄および少年片野清と意思を通じ、車外において右の者らと協力し、荷台上にいる畑山末吉らに右楢薪を手送りして、その積込みを手伝つたことが認められる。かりに、被告人小川市蔵が昭和二八年秋ごろ落馬しけがをして以来、肉体労働に不自由をしていたとしても、右証拠によれば、同被告人が右作業直前に同被告人方前の薪を右自動車に積むのを手伝つたことが明らかで、論旨もこの点を認めているのであり、同被告人の健康が約一年半前の負傷により薪の積込み手伝い程度の労働に困難を感ずるような状態にあつたとは認められない。

(四)、被告人山本清三郎および岡林、竹沢両弁護人は、本件仮処分執行当時その目的物たる薪は存在せず、現に執行された薪は、当時すでに被告人山本ヨシノから安田仁三郎(安鳳鶴)に売却されていて、被告人山本清三郎の所有にも占有にも属していなかつた旨主張する。原審第一二回公判調審中証人太田豊彦の供述記載≪中略≫によると、仮処分決定に表示された仮処分の目的物は、岩手県二戸郡小鳥谷村大字小繋字新館林八七番の一の一の山林一一九町七反一二歩より伐採搬出され、被告人山本清三郎の宅地内に積まれている薪材約一間であるが、執行吏太田豊彦は、申請人の代理人鹿志村光亮の説明を参酌し、同被告人方前に現に積まれている楢薪が決定表示の仮処分の目的物に当るものと判定して、これにつき執行したものであることが認められるのであつて、その執行を受けた物件が決定表示の目的物と別異のものであることを疑わしめるような証跡を発見することができない。なるほど、叙上のとおり決定表示の薪の数量は、約一間であり、現に執行を受けた薪の数量は、必ずしも明らかではないが、証人太田豊彦の供述記載によれば約一間であり、証人鹿志村光亮の供述記載および安鳳鶴の検察官に対する昭和三〇年一〇月二九日付供述調書によれば約二間である。しかし、以上の証拠を綜合すると、被告人山本清三郎方前に存在している薪につき仮処分をすることを意図した申請人代理人鹿志村光亮は、その申請をするにあたり、その薪の正確な数量を知ることができなかつたところから、その薪が仮処分の目的物であることを示すため、ことさらに定数による表現を避けて、「薪材約一間」という幅のある表現を用い、決定にも同様に表示されたもので、ひつきよう決定において仮処分の目的物とされたのは、当時被告人山本清三郎方前に存在した薪であり、現に執行の対象とされたのも、決定当時からそのまま同所に存在した同じ薪であることが認められるのであつて、かりに決定表示の薪の数量が現実に存在した薪の数量と若干相違していたからといつて、両者間に同一性がないものと断ずることはできない。なお、前記安鳳鶴の供述調書によると、被告人山本ヨシノは、仮処分決定のあつた日の前日の同年三月一五日、安鳳鶴との間に右薪を代金四、六〇〇円で売り渡す旨の契約を結び、同日同人から代金の内金として金二、〇〇〇円を受け取り、同月一八日ころ被告人山本清三郎が安鳳鶴から同様内金として金六〇〇円を受け取つたことが認められる。しかし、仮処分の目的たる物件が第三者の所有かつ占有に属していても、執行吏においてそのことを知らず、その物件が仮処分の申請人、被申請人間の係争物すなわち申請人側において保全を要するとする請求権の目的で、かつ、被申請人の占有にあると判定して仮処分の執行をした場合には、該執行は適法に取り消されるまではその効力を有するものと解すべきである。原審第一二回公判調書中証人太田豊彦の供述記載および仮処分執行調書謄本によると、執行吏太田豊彦は、右薪が申請人、被申請人間における係争物であり、かつ、被申請人の占有にあるものと判定して、これにつき仮処分の執行をしたものであることが明らかであつて、同執行吏において右物件につき第三者との売買契約がすでに結ばれていた事実を知つていたことを窺わしめるような証跡はない。のみならず、原判決の引用証拠によりゆうに認められるとおり、前掲山林の権利関係について申請人と被申請人との間に争があるのである。さればこそ、申請人は、右山林から伐採搬出したものと認められる薪につき処分禁止等の仮処分を申請したのである。被申請人が右薪につき所有権を有し処分する権限を有していたとすれば、その所有権が前記売買契約により買主に移転したものと解しうるであろう。しかし、被申請人がかかる実体上の権利を有していなかつたとすれば、その所有権が右売買契約により当然に買主に移転するということはないのであつて、被申請人においてその権利を取得して買主に移転する行為をすることによつて、初めて買主に移転するのである。仮処分執行当時右薪は依然被申請人方前に存在し、まだ買主に引き渡されていなかつたものと認められるから、執行吏太田豊彦がその占有が被申請人にあると判定したのも正当である。これを要するに、本件仮処分の執行が不適法もしくは無効と認められるべき事由はないのである。被告人山本清三郎、同山本ヨシノ、同小川市蔵、同立花金作および同山本満雄は、前記山林は右被告人らの属する部落の入会山であつて、部落民は古くから右山林で立木を伐採し、用材を取る等の権利を有しているのであり、かかる権利に基いて採取された薪の処分についてとかくの非難を受ける筋合はないと主張する。しかし、叙上のとおり右山林の権利関係については申請人、被申請人ら間に争があり、申請人が該山林から伐採搬出されたと認められる薪につき処分禁止等の仮処分を申請し、その申請が入れられて、右仮処分の執行が適法かつ有効に行われた以上、何人もその仮処分の趣旨に拘束されることは、いうまでもない。

原審第一回公判調書中被告人山本清三郎≪中略≫の各供述記載のうちの上記認定事実に反する部分は、右事実につき引用した前掲各証拠と対比し措信することができない。

以上の次第であるから、原判決が被告人山本ヨシノの本件仮処分の公示札をはぎ取つて捨てた所為を公務員の施した差押の標示を損壊した罪に問い、被告人山本清三郎、同市川市蔵、同立花金作および同山本満雄が少年片野清と共謀のうえ右仮処分にかかる薪を貨物自動車に積載した所為を窃盗の罪をもつて所断したのは、正当である。

論旨はすべて理由がない。

(第二)被告人山本満雄の控訴趣意第二点および岡林、竹沢両弁護人の控訴趣意第二点について、

原判決の挙示する証拠によると、原判示第二の事実は、ゆうにこれを認定することができる。記録を精査しても、原判決の事実認定に誤があるとは認められない。

論旨は、要するに、原判示のように「被告人山本満雄が鹿志村光亮の肩付近を一回強く突き飛ばし、」「同被告人がその弟の少年山本孝と力を合わせて鹿志村光亮の所持する写真機を力一杯引張る」などした事実がないというのである。しかし、当時の状況については、山本孝の検察官に対する昭和三〇年一〇月二六日付供述調書中に、被告人山本満雄と山本孝とが鹿志村光亮の所持する写真機を力一杯引張つた旨の供述記載があり、被告人山本満雄の検察官に対する昭和三〇年一一月二日付供述調書中に、同被告人と山本孝とが右写真機をつかんで離さなかつた旨の供述記載があり、原審第一五回公判調書中に、証人立花吉五郎の、山本孝が写真機を取ろうとして鹿志村光亮とちよつとした小ぜり合いをし、山本孝か被告人山本満雄かが鹿志村光亮の肩か胸のあたりを押した旨の供述記載があり、原審第一六回公判調書中に、証人鹿志村光亮の前掲判示事実に照応する被害てん末の供述記載がある。以上を綜合すると、右判示事実は、これを肯認することができる。しかして、右事実に現われている被告人山本満雄および山本孝の各行為は、人の身体に対する有形力の不法な行使であつて、刑法第二〇八条にいわゆる暴行に当るものというべきである。また、被告人山本満雄および山本孝が当時共同実行の意思を有していたことは、右両名の前記各供述調書および右両証人の供述記載により認めることのできるところの、被告人山本満雄および山本孝が鹿志村光亮と口論を始めてから暴行に及ぶまでの経過てん末および右暴行の行為態様自体に徴し明らかである。原審第二一回公判調書中被告人山本満雄の叙上の認定に反する供述記載は、前掲各証拠と対比し措信することができない。したがつて、原判決が同被告人の右所為を暴力行為等処罰に関する法律第一条第一項の数人共同して刑法第二〇八条の罪を犯した場合に当ると判断して、右条項をもつて処断したのは、正当である。

論旨は理由がない。

(第三)検察官の控訴趣意第二点の(三)、(四)の(一)ないし(三)、(五)、(六)について、

本件公訴事実中昭和三〇年一一月七日付起訴状(盛岡地方裁判所同年(わ)第二三二号)記載の公訴事実≪中略≫は、これを要約すると、被告人山本満三郎、同小川市蔵、同立花金作、同山本満雄および同山本定蔵が単独または相被告人もしくは他の者と共謀のうえ、昭和三〇年九月二〇日ころから昭和三一年九月中旬ころまでの間八回にわたり、岩手県二戸郡小鳥谷村大字小繋の字小繋一二二番地の一、二、字新館林八七番の二および字下平一〇五番の二所在の、鹿志村亀吉所有の各森林において、立木を伐採したという森林窃盗の事実であり、昭和三〇年一一月七日付起訴状(同裁判所同年(わ)第二三二号)記載の公訴事実第三および同年一二月二一日付起訴状(同裁判所同年(わ)第二六三号)記載の公訴事実は、被告人立花金作が他の者と共謀のうえ、同年九月二二日ころ、被告人山本満雄の依頼により、被告人斎藤実および同藤本正利が共謀のうえ、同年一〇月八日ころ、被告人山本清三郎らの依頼により、いずれも盗伐された木を丸太にしたものをその情を知りながら運搬したというに帰する森林窃盗の賍物運搬の事実である。原判決が(無罪部分についての説示)と題する項第二の二において掲げる証拠によると、右各公訴事実中森林窃盗に当るとされている行為の客体たる森林の産物が鹿志村亀吉の所有に属するかいなかないし右行為に出たとされている被告人らがその産物たる立木を伐採する権原を有するかいなかの点は別として、立木伐採および丸太運搬に関する外形的事実は、きわめて明らかである。原判決は、この事実を肯定しながら、結論として、大字小繋部落民たる被告人山本清三郎、同小川市蔵、同立花金作、同山本満雄および同山本定蔵は、いずれも右森林を含む山林原野につき草木ならびに果実の採取などを目的とする、共有の性質を有しない入会権を有しているのであるから、右被告人らが右森林に立ち入り、その立木を伐採することは、入会権の行使として当然容認される行為であり、したがつて、それらの被告人から依頼を受けた者が、右伐採された木を運搬することも、違法な行為とは目しえないとして、右各公訴事実につき無罪の言渡をした。論旨は、原判決の右理由に判決に影響を及ぼすことの明らかな法令の解釈適用の誤もしくは事実の誤認があると主張するのである。以下、順序として、大字小繋部落における入会関係およびこれを巡る紛争の経過てん末を概観したうえ、本件における争点について検討する。

甲、いわゆる小繋御山の所有および使用収益関係について、

盛岡地方裁判所大正六年(ワ)第四一号入会権確認ならびに妨害排除請求事件記録中の甲第一号証≪中略≫を綜合すると、次の事実が認められる。前記森林を含む大字小繋内の字小繋、字新館林、字下平、字東田子、字西田子等を囲繞する山林原野(以下本件山林原野と称する)は、古来小繋御山と総称された南部藩の所領の大部分に当り、字小繋部落に居住する、同部落の有力者である長楽寺の住職千歳坊立花喜藤太(累世襲名)なる者が代々藩庁より御山守を命ぜられ、本件山林原野ならびにこれに接続する同じく藩有地の西嶽御山、ほど久保山などの監守に任じていた。そして、大字小繋部落民はもとより御山守たる立花喜藤太自身さえもそれらの山林原野より建築用材、薪炭材などを伐採するには、藩庁の許可を要するものとされていた。ところが、大字小繋部落は、古来奥州街道(津軽街道)の宿駅で、明治二五、六年ころ鉄道が開通するまでは、人馬の往来がかなり頻繁であつて、相当繁華な部落を形成し、部落民の多くは、旅人宿、茶店、旅客および荷物の運送などを生業としていた。しかし、生活資源の多くを自然経済に依存しなければならなかつた部落民は、その周辺に耕地が少なかつたため、本件山林原野の所有および使用収益関係が叙上のようになつていたにかかわらず、現実には、永年にわたり、立花喜藤太の統制に服し、同人に対し労役および豆麦等を提供し、同人の承諾をえたうえ本件山林原野に立ち入つて自家用の建築用材、薪炭材等を伐採し、果実類を採取し、秣を刈り取り、牛馬を放牧したりなどして、その使用収益を続けてきた。すなわち、本件山林原野は、南部藩の所領であつたが、大字小繋部落民は、永年にわたる事実的慣行に基き、御山守立花喜藤太の統制に服しながらも、本件山林原野につきいわゆる共有の性質を有しない入会権を享有し、これを行使していたのである。しかるに、明治の初期に地租改正のための土地官民有査定処分が実施されるにあたり、これを担当した当時の当局は、明治八年六月二二日地租改正事務局達乙第三号、同年一二月二四日同局達乙第一一号、茨城県伺に対する明治一〇年五月一九日同局指令等の趣旨に準拠し、大字小繋部落民が前示のように本件山林原野に入り会つていた事実、立花喜藤太がその監守に任ずる御山守を命ぜられていたにすぎないのにかかわらず、事実上所有者とほとんど選らぶところのない強大な支配力を行使し、部落民もこれを承認してあえて疑わなかつたことなどの実態に着目し、本件山林原野を民有地に編入して、立花喜藤太の所有とするのを相当と認め、明治一〇年五月ころその旨の査定を行つて、同人に地券を交付し、土地台帳にもその旨の登載がなされた。立花喜藤太は、その後の明治三〇年一一月ころにいたり本件山林原野を棚山梅八ほか二名に売り渡し、棚山梅八らは、明治三一年一一月ころこれを金子太右衛門に売り渡し、金子太右衛門は明治四〇年一月ころこれを初代鹿志村亀吉に売り渡し、初代鹿志村亀吉は、同年二月一二日同人所有名義に登記し、二代鹿志村亀吉において大正一〇年六月三日家督相続によりその所有権を取得し、昭和一六年二月七日その旨の登記を経由した。叙上のごとく本件山林原野の所有権は、土地官民有査定処分以来転々して、結局初代鹿志村亀吉の手に帰したが、大字小繋部落民は、もとよりその間の所有者の変更によつて永年の慣行に基く本件山林原野に対する使用収益関係に影響を受けることなく、鹿志村の代にいたるまで従前どおりの共有の性質を有しない入会権を保有していた。

乙、入会紛争のてん末について、

盛岡地方裁判所大正六年(ワ)第四一号事件の訴状および判決書≪中略≫を綜合すると、前記入会権を巡る紛争のてん末は、次のとおりである。初代鹿志村亀吉は、明治四〇年一月ころ本件山林原野の所有権を取得して以来、大規模な造林事業に専念した。往時の宿駅としての繁栄をすでに失い、生活に困窮する大字小繋部落民の多くの者は、右事業に使役され、労銀をえて生計を立て、これに甘んじていた。ところが、大正四年六月ころの大火により住宅を焼失した部落民が建築用材をえるため、本件山林原野に立ち入つて立木を伐採したことに端を発し、本件山林原野の完全な所有権を取得したもので、部落民に対し枯木、下草などの採取を対価をえて許容していたにすぎないと主張する初代鹿志村亀吉と、本件山林原野につき父祖伝来の入会権を有し、その立木を伐採する権原があると主張する一部部落民との間に紛争を生じた。そして、鹿志村側に使役され、その恩恵を受けている部落民は、鹿志村側に荷担したため、部落は、鹿志村派と反鹿志村派とに両分して相反目するにいたつた。かくて、反鹿志村派の部落民立花源八ほか一一名は、大正六年一〇月一三日初代鹿志村亀吉および鹿志村派の部落民立花松次郎ほか一一名を相手取つて、原告らが字新館林八七番の一の一ほか七筆の山林原野(本件山林原野の一部)につき草木いつさいの採取、牛馬の放牧等を目的とする共有の性質を有する入会権を有することの確認等を求める旨の訴を盛岡地方裁判所に提起したが、昭和七年二月二九日言渡の判決をもつて、部落民は往古より右山林原野につき共有の性質を有しない入会権を有していたが、明治四〇年中に入会権を保有するより造林事業に雇傭されて賃銀をえる方が得策であるとしてその権利を抛棄したとの理由で、請求を棄却され(大正六年(ワ)第四一号)、宮城控訴院に控訴したが、昭和一一年八月三一日ほぼ同旨の理由で控訴を棄却され(昭和七年(ネ)第一三五号)、さらに大審院に上告したが、昭和一四年一月二四日上告を棄却され(昭和一一年(オ)第二、一一六号)、該判決は確定した。しかし、この二十数年にわたる争訟の結果も、叙上の入会紛争を終息させるにはいたらなかつた。反鹿志村派に属する本件被告人小川市蔵および同立花金作ほか九名は、昭和二一年三月一日二代鹿志村亀吉および鹿志村派の立花鉄郎ほか一名を被告として、原告らが字新館林八七番の一の一ほか七筆の山林原野(本件山林原野の一部)につき草木ならびに果実いつさいの採取および牛馬の放牧等を目的とする共有の性質を有する入会権者であることの確認等を求める旨の訴を、盛岡地方裁判所に提起し、さらに、そのころ反鹿志村派の立花義雄ほか七名が二代鹿志村亀吉および鹿志村善次郎を被告として、原告らが字東田子五〇番の二ほか六筆の山林原野(本件山林原野の一部)につき同様の入会権を有することの確認等を求める旨の訴を同裁判所に提起した。しかし、同裁判所は、前者については昭和二六年七月三一日言渡の判決をもつて、後者については同年九月二五日言渡の判決をもつて、原告ら部落民はそれぞれの山林原野につき共有の性質を有する入会権を有していたが、被告鹿志村側が所有の意思をもつて平穏、公然にこれを占有したことにより、これにつき入会権の付着しない完全な所有権を時効により取得し、その結果原告らの入会権は消滅に帰したとの理由により各請求を棄却した(昭和二一年(ワ)第一三号、同年(ワ)第四〇号)。右両事件につき控訴の申立を受けた仙台高等裁判所は、当初通常の訴訟手続により平行して審理を進めていたが(昭和二六年(ネ)第一九五号、昭和二七年(ネ)第三〇号)、昭和二八年五月二〇日職権をもつて両事件を自庁の民事調停に付し、爾来調停主任判事谷本仙一郎、調停委員国分謙吉、同阿部千一、同吉田文一郎および同佐藤邦雄が調停委員会を組織して、調停を進めた。調停委員会は、昭和二八年九月一九日の調停期日において、両事件の当事者等に対し、(イ)小繋、田子両部落の世帯主は、利害関係人として本件に参加すること、(ロ)被控訴人は、小繋田子部落民に対し金二〇〇〇、〇〇〇円またはこの金額に相当する立木を提供し、実測一五〇町歩を無償で解放すること、(ハ)解放地以外の山林原野につき小繋田子両部落民が入会権を有しないことを確認する方途を講ずること等を主たる条項とする調停の基本案を示し、翌二〇日の続行期日において、双方より右案を原則的に受諾する旨の回答をえたが、控訴人側から調停成立前に債権者との関係を有利に解決したい旨の要望があつたため、右案につきさらに考慮するという形式で調停を続行した。次いで、調停期日は同年一〇月一一日に開かれたが、同期日において調停主任判事が両事件を併合し、双方の申出により被告人山本清三郎、同山本定蔵その他調停の結果につき利害関係を有すると認める字小繋、字東田子、字西田子等の部落の世帯主を広く参加させたうえ、出頭した当事者、利害関係人等に対し調停を試みた結果、(1)、控訴人らは、被控訴人らに対する本件各請求を抛棄し、控訴人全員、被控訴人立花鉄郎、同川口甚之輔および利害関係人全員(以上の者を以下甲と略称する)は、別紙目録記載の土地(その地上樹木その他毛上いつさいを含む、以下同様)について、将来入会権(共有の性質を有するものであると、これを有しないものであるとを問わない)その他なんらの権利を主張せず、また、過去において右の権利を有したことを理由とするなんらの権利をも主張せず、かつ、右土地が被控訴人鹿志村亀吉、同鹿志村善次郎(この両名を以下乙と略称する)の各所有であることを確認する、(2)、乙は控訴人全員に対し金二〇〇〇、〇〇〇円を贈与する、(3)、乙は甲に対し別紙目録記載の土地中字新館林八七番の二を基調として、人工天然造林地でない土地約一〇〇町歩および字西田子七三番の二の一を基調として、人工天然造林地でない土地約五〇町歩その合計実測一五〇町歩を贈与する、(4)、前項の贈与の目的たる土地の選定は、甲乙の協議によつて行い、甲乙の協議が昭和二八年一〇月二〇日までに成立しない場合には甲乙は本件の調停委員佐藤邦雄、同吉田文一郎の裁定に従うものとし、その裁定に対し甲乙とも異議を述べない、(5)、甲は別紙目録記載の土地中(3)記載の土地以外の場所に絶対に立ち入らない、(6)、甲は乙の植林事業およびこれに併う伐木搬出等につきいつさい妨害しない、(7)、本件訴訟について支出したいつさいの費用および本調停に関する費用は、控訴人および被控訴人の各自弁とすることを主たる内容とする調停条項につき合意が成立したものとして、その旨の調書を作成させた。((1)(3)(5)の各条項にいう別紙目録の内容の摘示を省略する。)なお、その後(2)の条項に基く二〇〇〇、〇〇〇円の贈与金は、乙から調停委員佐藤邦雄立会のもとに甲の代理人弁護士永井一三に手交され、また、(3)の条項に基く贈与土地の選定については、甲乙の協議が所定の期日までに成立しなかつたため、調停委員佐藤邦雄が同年一二月一三日ころ岩手県の小坂技師ほか二名の援助をえて実地を踏査したうえ、字新館林八七番の二および字西田子七三番の二の一を基調としてその範囲を定め、昭和二九年一月六日調停委員吉田文一郎とともにこれを裁定した。かくて、約半世紀にわたる入会紛争は、ここに終止符を打たれたかのように見えたが、部落民中被告人山本清三郎、同小川市蔵、同立花金作、同山本定蔵らを含む一派の者は、調停どおりの解決では部落の生活が成り立たないとして調停に不満を唱え、外部の者の応援指導をえて調停反対の闘争を開始した。そして、後訴昭和二六年(ネ)第一九五号事件の控訴人である被告人立花金作ほか六名は、昭和二八年一二月一四日仙台高等裁判所に対し口頭弁論期日の指定を申し立て、入会権者若子内与三郎ほか四名が調停に参加しなかつたことその他数項目を掲げて調停の無効を主張し、争を再び法廷に持ち出した。仙台高等裁判所は、右申立に基いて審理を遂げた結果、昭和三〇年七月二八日、右申立を理由がないものと認め、本件各訴訟(昭和二六年(ネ)第一九五号および昭和二七年(ネ)第三〇号)は、昭和二八年一〇月一一日同裁判所のなした調停により終了した旨の判決を言い渡し、右判決は昭和三〇年八月一五日をもつて確定した。しかし、争はそれでも止まなかつた。反鹿志村派は、その前後のころ数次にわたり会合して、対策を協議し、後訴第一審では被控訴人側の時効の抗弁が認められて控訴人側が敗訴したことにかんがみ、本件山林原野に立ち入つて立木を伐採し、入会権行使の実蹟を作つておくことが得策であるとして、調停にかかわりなく右山野を共同で使用収益すべきことを申し合わせた。かようにして、本件の被告人らは、右判決確定後においても、調停によれば部落民においてなんらの権利をも主張しえないところの、鹿志村側の完全な所有に属することの確認を受けた山林にほとんど公然と立ち入つて、立木を伐採し、これを搬出するにいたつた。これが本件において摘発された森林法違反の事実である。

丙、争点について、

原判決は、被告人山本清三郎、同小川市蔵、同山本定蔵および同山本満雄は、前訴すなわち前記確定判決のあつた民事訴訟における当事者の承継人たる地位を有し、したがつて、その既判力の効果を受けるが、右判決は対世的効力を有しないから、刑事裁判所において右被告人らが本件山林原野につき入会権を有するかいないかの認定をするについて拘束力を持たないとの見解をとり、右判決が原告ら部落民敗訴の理由とした入会権抛棄の事実については、その抛棄が部落民の一部により行われたもので、権利者全員の合意に基くものではないから、その効果を生ずるはずがないとし、後訴第一審が原告ら部落民敗訴の理由とした鹿志村側の取得時効の事実を否定し、その第二審において行われた調停については、それは形式的にも実質的にも無効であるから、その当事者、利害関係人およびそれらの家族を拘束するいわれがないとし、期日指定の申立に対する判決の認定事実をも退け、結局部落民たる被告人山本清三郎、同小川市蔵、同立花金作、同山本満雄および同山本定蔵は、右民事の確定判決および調停にかかわりなく引き続いて入会権を有していると判断している。ところで、被告人らおよび弁護人が調停の無効原因として原審以来主張する事項は、これを要約すると、(イ)、調停期日に出頭した控訴代理人弁護士吉田久、同福田耕太郎、同永井一三、同吉田賢雄および同橘川光子は、調停についての特別授権を有しなかつた、(ロ)、利害関係人兼利害関係人山火又三ほか一〇名の代理人として調停期日に出頭した片野源次郎が山火又三ほか一〇名から代理権を授与された形跡がなく、少くとも部落側の取得分につき山林原野五〇〇町歩以下に譲歩する権限を与えられた事実がない、(ハ)、入会権者若子内与三郎および同堀口与七が調停に参加しなかつた、(ニ)、入会権者滝川金三および同藤田儀介は、調書上調停に参加したことになつているが、事実はこれに参加しなかつた、(ホ)、利害関係人兼利害関係人山火又三ほか一〇名の代理人として調停期日に出頭した片野源次郎および利害関係人として同様調停期日に出頭した被告人山本清三郎は、調停条項を受諾する意思を有しなかつた、(ヘ)、かりに控訴人、鹿志村以外の被控訴人および参加人全員の調停受諾の意思表示があつたとしても、それは要素の錯誤に基くものであるから、無効である、(ト)、調停条項(4)に基く裁定書が片野源次郎に送達されなかつた、というのである。原裁判所は、以上の主張中(ハ)の若子内与三郎に関する部分および(ヘ)を採用して、これを調停の無効原因と認めているのである。民事の確定判決における既判事項が刑事裁判所の事実認定を拘束するかいなかの論点はしばらくこれをおき、調停がはたして無効であるかいなかの争点について吟味を試みる。

(イ)、訴訟代理人に対する調停についての特別授権がなかつたとの主張について、

民事訴訟法第八一条第二項は、訴訟代理人が委任を受けた事件につき和解をするには、特別の委任を受けることを要する旨を規定し、同法第八〇条第一項は、訴訟代理人の権限は書面をもつてこれを証することを要すると規定している。民事調停は、民事に関する紛争につき、調停機関の関与のもとに、当事者の互譲により、条理にかない実情に即した解決を図ることを目的とする制度で、裁判機関の関与のもとに、当事者の互譲による一致した陳述によつて民事に関する紛争を解決する訴訟上の和解と若干手続を異にするが、機能および効果を同じくし、本質的に類似の性格を有するものと認められる。したがつて、右特別授権に関する第八一条第二項の規定は、訴訟代理人が民事調停につき代理行為をする場合にも準用があるものと解すべきである。右権限の証明に関する第八〇条の規定が民事調停にも準用されることは、民事調停法第二二条非訟事件手続法第七条により明らかである。ところで、右権限の証明に関する規定は、将来に向つて代理行為をする場合におけるその権限の証明方法を定めたものであつて、すでになされた代理行為につきその権限を証明するには、必ずしも委任状その他の書面によることを要しないと解するのが相当である。けだし、右規定は、訴訟係属の段階において、爾後の訴訟追行に関し、あらかじめ書面により代理権の存在およびその範囲を明らかにしておくことによつて、訴訟の進行中に代理権の存否に関する争が生ずることを防止し、訴訟の安定とその迅速、円滑な進行を図るという手続上の要請に基くものであつて、かような要請の働く余地のない、たとえば訴訟終了後の段階で既往の代理行為につきその権限の存否が問題となつた場合にまで書面のみによる証明方法を要求する実質上の理由が乏しいと認められるからである。昭和二六年(ネ)第一九五号および昭和二七年(ネ)第三〇号事件の昭和二八年一〇月一一日の調停調書によると、吉田久、福田耕太郎、永井一三、吉田賢雄および橘川光子の五弁護士が右両事件の控訴人全員の代理人として調停期日に出頭し、代理行為をしたことが明らかである。ところで、原審第一〇回公判調書中の検証の結果の記載によると、昭和二六年(ネ)第一九五号事件の記録には、同事件の控訴人全員の吉田久、福田耕太郎、永井一三および吉田賢雄の四弁護士に対する昭和二六年八月二日付委任状一通および同控訴人全員の弁護士橘川光子に対する同年一一月五日付委任状一通のほかに同控訴人側の弁護士に対する委任状が存在しないことが明らかである。しかるに、吉田久ほか三名の弁護士に対する委任状には、委任事項として「盛岡地方裁判所昭和二一年(ワ)第一三号入会権確認事件の判決に対し控訴をなすの件ならびに控訴審におけるいつさいの訴訟行為」との記載があるだけであり、弁護士橘川光子に対する委任状には、委任事項として「仙台高等裁判所昭和二六年(ネ)第一九五号入会権確認妨害排除請求事件に関するいつさいの件」との記載があるだけであつて、いずれの書面にも調停につき授権した旨の記載がない。法が委任にかかる特定事件に関する本来の訴訟追行目的に適合しないところの、重大な結果をもたらすような事項につき特別の授権を要するとした趣旨にかんがみるときは、右各書面にいわゆる「いつさいの訴訟行為」もしくは「いつさいの件」とは、本来の訴訟追行目的に適合する行為いつさいを指す意味であつて、元来特別の授権を要する事項である和解ないし調停を含むものと解することはできない。しかしながら、本件の調停が成立し、事件が完結するまでの間に、当事者のいずれの側からも右弁護士五名の代理権の存否につき異議の申立その他の方法により直接的にも間接的にも争われた事実のないことは、当審第三回公判調書中証人袴田重司の供述記載ならびに当裁判所の証人吉田久および同福田耕太郎に対する各尋問調書により明らかであり、原審において取り調べた前記民事事件記録中の各書類にもそのような証跡を発見することができない。かえつて、右引用証拠≪中略≫を綜合すると、昭和二六年(ネ)第一九五号事件の控訴人全員は、吉田久、福田耕太郎、永井一三、吉田賢雄および橘川光子の五弁護士に対し、右事件の調停に関し当事者として行いうべきいつさいの事項を委任して、その代理権を授与し、以上の弁護士は、右の授権に基いて調停期日に出頭し、調停に関する諸般の行為をしたものであることがきわめて明らかである。佐藤邦雄が調停委員の一人として事件の処理に尽したことは、さきに説明したとおりであるが、同人に対する前記証人尋問調書中に「八月三〇日の調停が始まる前に、控訴人側の山本善次郎君ほか十二、三名の人たちに元の検事正室で今の裁判所の第一応接室かと思われる部屋にお出でを願い、双方の主張が大分接近してきた、これからいよいよ最後的な案を中心として折衝することになるが、あなたがたは人数も多いし、代理人に交渉してそれで異存がないか、代理人が承知したことについては異議がないのかということを、あとでいろいろ問題が起きても困るので、念のため控訴人たちに聞いてみた。ところが、自分たちの方では、代理人をいつさい信用して、任せている、代理人の決めたことについては、そのまま全部承認して異議がないという話であつた」旨の供述記載がある。右は、昭和二六年(ネ)第一九五号事件の控訴人全員が吉田久ほか四名の弁護士に調停に関するいつさいの権限を与えていたことを立証して余りがあるというべきである。

(ロ)、片野源次郎に対する参加代理権の授与がなかつたとの主張等について、

原審第一一回および第二回各公判調書中証人山本善次郎の供述記載≪中略≫を綜合すると、昭和二六年(ネ)第一九五号事件および昭和二七年(ネ)第三〇号事件が昭和二八年五月民事調停に付せられて以来、控訴人その他の大字小繋部落民は、控訴人山本善次郎方等でよりより会合して、対策につき協議を重ねていたが、控訴人その他の部落民約二〇名が同年八月ころ同所に参集し、各人めいめいが折衝に参加すれば混乱を招くおそれがあるところから、部落民中の適当な人物を代表者に選び、これにいつさいを任せて、代理人たる弁護士との交渉等に当らせ、もつて部落民の意向を調停に反映させるべきことを申し合わせたうえ、控訴人中より山本善次郎を、控訴人以外の部落民中より片野源次郎ほか二名を代表委員に選び、右四名が昭和二六年(ネ)第一九五号調停事件の代表委員であることを承認する旨をしたため承認書と題する書面を作成して、これに出席者中の立花兼松その他の主だつた人々が署名押印し、その後右代表委員において主として右代理人との交渉等の任に当つていたこと、調停の成立した同年一〇月一一日の直前ころ、片野源次郎、山火又三、立花長五郎、外谷仁太郎、立花甚四郎、石橋とみえ、野刈駒次郎、山本定蔵、土川マツヱ、米田又一郎、立花タケおよび小川石太郎の一二名名義の、「調停手続に参加申出並に代理人許可願」と題する、「右当事者間の御庁昭和(空白)年(ネ)第一九五号入会権確認等請求事件の調停手続に私共は利害関係人として参加致したく御許可願います。尚参加人のうちの一人である片野源次郎を私共の代理人として出頭することを御許可願います」という内容の、仙台高等裁判所民事部あて昭和二八年一〇月一一日付書面が作成されて、右民事部に提出され、同部が右日付の日に(ウ)第七七号をもつてこれを受理し、調停主任判事一名および調停委員四名が右書面による願の趣旨を許可したこと、右書面に表示されている名義人の氏名およびその名下の印中片野源次郎、山火又三、立花長五郎、外谷仁太郎、立花甚四郎、野刈駒次郎、山本定蔵、土川マツヱおよび米田又一郎の分は、いずれも本人自身の署名および印であるが(立花長五郎、立花甚四郎および山本定蔵名下の印が本人自身のものであることを認めるべき直接の証拠はないが、その署名が本人の自署である以上、その名下の印も本人の意思に基くものと推定する)、石橋とみえは行商に出かけるため、立花タケおよび小川石太郎は老令で健康がすぐれないため、いずれも集りに出ることができなかつたところから、石橋とみえの関係では、とみえの実弟鹿川稔がとみえの依頼によつて代署したうえ、とみえの伯母土川マツヱがとみえの意を受けてその名下に押印し、立花タケの関係では、同人の孫米田徳利がタケから任されてその名下に押印し、小川石太郎の関係では、同人の子立花由太郎が石太郎のため代署して押印したものであることが認められる。以上のいきさつおよび右書面の形式、内容等から勘案すると、右書面に名義人として表示されている片野源次郎および山火又三ほか一〇名は、いずれも調停に利害関係人として参加する意思を有し、そのうちの山火又三ほか一〇名は、片野源次郎に対し参加の申出をすることその他参加人としてなすべき行為いつさいを委任し、かつ、その代理権を授与したものと認めるのが相当である。なるほど、原審第五回公判調書中の検証の結果の記載によると、山火又三ほか一〇名の片野源次郎に対する右趣旨の委任を内容とする委任状が作成されて提出された形跡はない。しかし、かかる委任状が存在しなくても、叙上のとおり事実委任の行われたことが立証できれば、それで十分であつて、この関係についても、前項で触れた訴訟代理人に対する特別授権の例に準じて考えればよい。もつとも、証人小川石太郎に対する尋問調書中に、右書面に名義人として氏名を書き、押印することを他に依頼した覚えがない旨の供述記載があり、立花由太郎に対する尋問調書中にも、小川石太郎の事前の依頼も指図もないのに、右書面に同人の氏名を書いて押印し、あとで同人にしかられた旨の供述記載があるが、右はいずれも措信することができない。のみならず、右証人小川石太郎に対する尋問調書中同証人と被告人小川市蔵との身分および世帯関係に関する部分≪中略≫を綜合すると、小川石太郎は、調停当時の世帯主である被告人小川市蔵の実父であつて、当時同被告人と同居していたものであり、かつ、同被告人は、昭和二六年(ネ)第一九五号事件の控訴本人であつて、当事者として調停に関与したことが明らかである。世帯主である被告人小川市蔵が当事者として調停に関与した以上、その世帯員である小川石太郎が利害関係人としてこれに参加する必要はなかつたものというべきである。したがつて、同人につき参加委任および代理権授与行為が意思の欠缺により無効であるかいなかを詮索することは、意味のないことである。片野源次郎の代理権に対し、控訴人および控訴人側全員の取得分につき山材原野五〇〇町歩以下に譲歩するような調停条項に応じてはならないという制限が付せられた事実は、叙上の認定事実ならびに後記(ホ)の説明に徴し、これを認めることができない。

(ハ)、入会権者堀口与七および若子内与三郎が調停に参加しなかつたとの主張について、

大字小繋部落民が古来本件山林原野につき共有の性質を有しない入会権を有しており、所有者鹿志村の代の明治末期にこれを抛棄したかいなかの点は別として、それまでの数次にわたる所有者の変更によつて右権利になんらの影響を受けなかつたことは、さきに説明したとおりである。ところで、入会権の主体は、常に実在的綜合人たる部落団体である。入会権帰属の態容は、それが共有の性質を有するものすなわち入会地の地盤が入会部落の所有に属するものであるときは、総有であり、それが共有の性質を有しないものすなわち入会地の地盤が入会部落以外の者の所有に属するときは、他物権の総有的帰属―準総有―である。しかして、個々の部落民は、実在的綜合人たる部落団体の構成員と認められることによつて入会権を取得し、かかる構成員たる地位を失うことによつて入会権を喪失するのであり、また、部落団体として総有しもしくは準総有する入会権を廃止するには、入会権者たる入会部落全住民の同意を要するものと解されている。本件の調停条項は、大字小繋部落民が当時まで引き続いて本件山林原野につき入会権を有していたかいないかの問題については直接触れていない。しかし、部落民が当時なお実体的に入会権を有していたという観点に立つて解釈すれば、部落民が将来入会権を主張しないという条項(1)の定めは、部落民が合意のうえ入会権を抛棄し、将来その権利を主張しないという趣旨に理解することができる。堀口与七および若子内与三郎が調停に参加しなかつたことは、前掲調停調書の記載により明らかである。そこで、進んで右両名がかつて入会権を有していたかいないかについて検討しなければならない。

原審第九回公判調書中証人堀口与七の供述記載≪中略≫によると、堀口与七は、元来浄法寺町に在籍する人で、昭和二四年一二月ころ字小繋の住民土川マツヱの娘ナカが事実上の養子に行つた先の江尻町田口家にはいつてナカと内縁の夫婦となり、その後ナカとともに養家を出、昭和二七年二月ころからナカの里である土川マツヱ方で間借りをし、マツヱとはかまどを別にし、日雇などをして暮し、調停当時も引き続き同様の生活をしていたことが認められる。しかし、控訴本人米田徳利に対する尋問調書謄本および原審第一〇回公判調書中証人片野源次郎の供述記載によると、堀口与七は、字小繋部落に出かせぎのような形で移り住んでいたものであることが窺われるのであつて、同人が部落に来てからまだ日の浅い調停当時においてすでに部落内に将来とも定住する意思を定めて生活の本拠たる実体を形成し、もつてその住民たるにふさわしい資格を備えるにいたつたものと認めることはできない。論旨は、新入りの移住者は、部落内の家団の代表者が毎年旧の七月二四日または二百十日の前日に部落内の小安地蔵尊に集合して行う「おみきあげ」なる行事に出席し、その席上で参会者に酒肴を饗応し、定住の意思を表示して仲間入りを願い、参会者の承諾をえることによつて入会権を原始的に取得すると主張する。以上の引用証拠によれば、部落では古くから年中行事として「おみきあげ」なる催しが行われていることが認められる。しかし、当審受命裁判官の証人立花鉄郎および同笹目子市太郎に対する各尋問調書によると、「おみきあげ」は、部落内の小安地蔵尊の縁日等に部落民が「おみき銭」を出し合つて集合し、尊前に酒を供えて部落の安泰を祈り、酒を酌みかわす行事であつて、これに参加することによつて特別の資格ないし権利義務を生ずるという性質のものでないことが明らかである。のみならず、原審第九回公判調書中証人堀口与七の供述記載≪中略≫によると、堀口与七は、部落に来てから調停が成立するまでの間に、世帯主土川マリヱの代理として「おみきあげ」に出席したことはあるが、世帯主本人としてこれに出席し、参会者に酒を饗応した事実のないことが明らかであり、また、同人がその出席の間に参会者に対し定住の意思を表示し、仲間入りを願つたというがごとき事実を認めるに足りる証拠がない。

次に、原審第九回公判調書中証人若子内与三郎の供述記載≪中略≫によると、若子内与三郎の住居は、大字小鳥谷字笹目子にあり、大字小繋に属する字小繋その他の部落とは行政区画を異にしていること、同人方は、大字小鳥谷字笹目子と大字小繋字下平との境の東側近くにあり、新国道に面しているが、旧国道は、字小繋部落において新国道と交差し、同部落を南北に縦断して、字笹目子および字下平付近を通らず、右両字の境界からその西方にあたる新旧国道の交差点まで約八三〇米の距離があること、同人方からその西南方に係争の字新館林八七番の二の山林等を望見することができるが、同人方の南方には、新国道およびこれとほぼ平行する国鉄東北本線の線路を隔てて字笹目子に属し、俗に源七山と称する片野源七所有の山林が迫つており、北方近くには、中島万次郎、笹枝政次郎らの各所有山林が連なつていることが認められる。以上の行政区画および地理的関係から若子内方が古くから本件山林原野に入り会つていた事実を推測することのできないことは、いうまでもない。のみならず、控訴本人米田徳利に対する尋問調書謄本≪中略≫によると、若子内与三郎の父与吉は、明治の中葉ころ小鳥谷村内の字若子内部落から字笹目子に移つて来て同部落に住みついたが、その子与三郎は、長じてから字笹目子を去つて他家に婿入りし、その後実家にもどつて字笹目子に定住し、昭和一三年ころ世帯主となり、調停当時も同様の地位にあつたのであるが、若子内一家の者は、字笹目子に移住して以来、その住居の南方にある前記源七山にはいつてこれを利用し、その一部を開墾し、農耕に従事したりなどして生計を立てていたもので、本件山林原野には入り会つていなかつたことが認められる。もつとも、原審第一四回公判調書中証人鹿志村光亮の供述記載≪中略≫によると、被控訴人鹿志村側は、当事者以外の者に対し利害関係人として調停に参加することを勧誘するにあたり、後日不参加者から争いを起されることをおもんぱかり、贈与すべきものは一定していて参加人の増減が直接自己の利害に影響しないところから、利害関係人であることの必ずしも明らかでない者をも広く調停に参加させる方針を採つたこと、被控訴人側にあつて事件の処理に奔走していた鹿志村光亮は、字笹目子部落の住民が調停に参加する資格を有するとは必ずしも考えなかつたが、右方針に則り、まず字笹目子部落の笹目子市太郎に参加を勧めてその承諾をえたうえ、立花善一を代理人として参加させ、次いで、同部落の若子内与三郎に対しみずからもしくは笹目子市太郎を介して同様参加を勧めたが、若子内与三郎は、山はいらないと称して参加を拒否したことが認められる。したがつて、鹿志村光亮が若子内与三郎に対し調停参加を勧めたことおよび同人とともに字笹目子部落に住む笹目子市太郎が調停に参加したことを目して、若子内与三郎がかつて本件山林原野につき入会権を有していたことの証左と認めることはできない。原審第九回公判調書中証人若子内与三郎および同片野政吉の各供述記載≪中略≫中若子内与三郎もまた本件山林原野に入り会つていた旨の部分および右証人若子内与三郎の供述記載中判をつけばみんなといつしよに暮せると思い、山本善次郎の出した書付に判を押した旨の部分は、措信することができない。

以上を要するに、堀口与七および若子内与三郎がかつて本件山林原野につき入会権を有していたとは認めがたいから、右両名が調停に参加しなかつたことが調停の効力に影響を及ぼすいわれはないものというべきである。

(ニ)、入会権者滝川金三および同藤田儀介は調停調書上調停に参加したことになつているが、事実はこれに参加しなかつたとの主張について、

証人滝川金三および同藤田儀介の当審第八回公判期日における各供述≪中略≫によると、滝川金三家は、父の代の明治三七年ころから字小繋に居住し、藤田儀介は、昭和一九年ころから約一一年間字小繋に居住し、その後字東田子に移住したもので、両名とも調停当時世帯主であつたことが認められる。ところで、昭和二六年(ネ)第一九五号および昭和二七年(ネ)第三〇号事件の昭和二八年一〇月一一日の調停調書には、その冒頭の当事者等の欄に控訴人および被控訴人の住所氏名、訴訟代理人の氏名、利害関係人および利害関係人兼利害関係人代理人の住所氏名等が並記されているが、その中に立花善一の氏名が(ネ)第一九五号事件の被控訴人川口甚之輔代理人および利害関係人兼利害関係人片野源八ほか列記の二〇名―滝川金三および藤田儀介を含む―代理人として表示され、次に、前記各号調停事件について昭和二八年一〇月一一日午前一〇時盛岡地方裁判所において調停委員会を開いた旨の記載に続いて出頭者の資格、氏名が列挙されているが、その中に(ネ)第一九五号事件被控訴人川口甚之輔代理人兼利害関係人片野源八外二一名代理人兼利害関係人立花善一という表示(二一名とあるのは二〇名の誤記と認める)が見られ、さらに、被控訴代理人が右二二名の利害関係人および利害関係人山本清三郎の参加を申し出、控訴代理人が右参加申出について異議がないと述べた旨、調停主任判事が調停委員とともに当事者および利害関係人に対し調停を試みたところ、次のとおり調停が成立した旨その他同期日において明確にされた事項が調停条項の全文とともに順次掲げられている。

民事訴訟法第一四七条本文は、口頭弁論の方式に関する規定の遵守は、調書によつてのみこれを証することができる旨を定めている。右法条は、訴訟手続の明確と安定とを期するため、口頭弁論の方式すなわち弁論の時および場所、弁論の公開、関与した裁判官および裁判所書記官、当事者、代理人、補助参加人等の出欠、裁判の言渡、従前の弁論の結果の陳述その他の弁論の内容に属しない形式的事項については、裁判所書記官の作成した調書に絶対的な信頼を置き、他の証拠によつてこれをくつがえすことを許さないとする趣旨である。この調書の証明力に関する規定は、訴訟上の和解が口頭弁論期日で成立した場合にその旨を明確にした口頭弁論調書(同法第一四四条参照)に適用されることは、いうまでもないが、訴訟上の和解が準備手続期日、受命裁判官または受託裁判官の主宰する期日で行われた場合に作成される調書にも準用されることは、民事訴訟規則第二二条民事訴訟法第一四九条により明らかである。民事調停は、訴訟上の和解と機能および効果を同じくし、本質的に類似の性格を有すると認められるから、裁判所書記官が民事調停規則第一一条本文により調停手続につき作成する調書に対しても、訴訟上の和解につき作成される調書の証明力と同等の証明力を与えてしかるべきものと解する。かような観点から本件の調停につき作成された調書により問題を滝川金三および藤田儀介関係に限定して考察すれば、立花善一が利害関係人滝川金三および同藤田儀介の代理人として調停委員会に出頭し、被控訴代理人から右二利害関係人の調停参加を申し出、調停主任判事が調停委員とともに立花善一を含むと認められる当事者、利害関係人等に対し調停を試みたという手続上の事実は疑うことはできないのであつて、他のいかなる反証をもつてしても、右事実を動かすことはできない。なお、被控訴代理人は、右二利害関係人の参加の申出を、その代理人として出頭した立花善一の意を受けてしたものと認めるべきである。かつ、代理の許可おび参加の許可の方式についてはなんらの定めがないから、その許可の有無を手続の経過自体から推認することも許されるものと解すべきところ、調停委員会が立花善一において右二利害関係人の代理人として出頭したことを確認し、その調停参加の申出を受け、そのまま立花善一を含むと認められる関係者に対し調停を試みたという手続全般の経過に徴すると、調停委員会は、右の代理および参加をともに許可したものであることが看取される。

しかし、右調停調書の証明力は、立花善一が事前に利害関係人滝川金三および同藤田儀介から参加の申出その他の調停に必要な行為を委任され、その代理権を授与されたとの点に及ぶものではないから、この点は別個の問題として吟味されることを要する。前記調停事件記録には、滝川金三および藤田儀介連名の委任状および「調停手続に参加申出並に代理人許可願」と題する書面各一通が綴られている。それらの書面は、いずれも調停成立の日である昭和二八年一〇月一一日付のものであり、前者は、立花善一を代理人と定め、同人に調停参加の申出および調停に関するいつさいの件を委任することを内容とするもの、後者は、参加の許可および立花善一を代理人として出頭させることの許可を願う趣旨の、仙台高等裁判所民事部あてのものであり、しかも、後者の上欄に同民事部が昭和二八年一〇月一一日(ウ)第七八号をもつて受け付けた旨の受付印が押されている。右二通の書面によると、滝川金三および藤田儀介が調停の成立した期日に立花善一に対し参加の申出および調停に関するいつさいの行為を委任し、その代理権を授与したことが一見明らかであるように思われる。しかし、証人滝川金三および同藤田儀介の当審第八回公判期日における各供述≪中略≫を綜合すると、前記委任状および許可願は、その日付および受付印にもかかわらず調停期日終了後に作成されたものと認めざるをえない。証人鹿志村光亮および同立花鉄郎の当審第九回公判期日における、以上の書面の作成日時に関する各証言は、不合理であつて信をおきがたく、他に立花善一が調停期日終了前に滝川金三および藤田儀介から調停に関し適法に授権されたことを認めるに足りる証拠がない。したがつて、立花善一が調停期日に利害関係人滝川金三および同藤田儀介の代理人の資格で出頭し、被控訴代理人を通じて右利害関係人二名の参加を申し出、調停の成立に関与したのは、いわゆる無権代理行為と認めるのほかはない。しかし、ひるがえつて考えるに、民事訴訟法第五四条によれば、訴訟能力、法定代理権または訴訟行為をするに必要な授権の欠缺ある者がした訴訟行為は、その欠缺のなくなつた当事者または法定代理人の追認により、行為の時にさかのぼつて効力を生ずる。右規定は、同法第八七条により訴訟代理に準用されているから、代理権を有しない者が訴訟代理人としてした訴訟行為は、本人または適法な委任を受けた訴訟代理人が追認をすれば、行為の時にさかのぼつて有効となるのである。しかして、民事調停における参加代理につき民事訴訟における法定代理、訴訟代理等より厳格に解すべき理由を認めがたいから、民事調停の参加に関する無権代理行為についても、民事訴訟法の右各規定の趣旨に準じ、追認が許されるものと解するのが相当である。なお、追認の方式は、これを制限する理由がないから、書面でも口頭でももちろんよいがまた明示でも黙示でもよいと解すべきである。ところで、滝川金三および藤田儀介は、前記委任状および許可願を調停期日終了後に作成したとはいえ、右両名の当審第八回公判期日における各証言によれば、同人らはいずれも調停参加の効力を認められることを期待したからこそ、前摘示のごとき文面をもつて右各書面を作成提出したものであることが認められるから、その作成提出は、立花善一が調停期日において右両名の代理人として出頭してしたいつさいの行為を追認する意味を有するものと認めることができる。したがつて、該行為は、右各書面の作成提出によりその行為の時にさかのぼつて効力を生じたのであり、また、したがつて右両名の調停参加の効力もその期日にさかのぼつて生じたものということができる。

(ホ)、利害関係人山火又三ほか一〇名の代理人兼利害関係人として調停期日に出頭した片野源次郎および利害関係人として調停期日に出頭した被告人山本清三郎は、調停条項を受諾する意思を有しなかつたとの主張について、

昭和二六年(ネ)第一九五号事件および昭和二七年(ネ)第三〇号事件が民事調停に付せられてからそれが成立するまでの経過の要領については、さきに「入会紛争のてん末」の項で触れたが、原審第一一回および第一二回各公判調書中証人山本善次郎の供述記載≪中略≫により調停の経過をさらに詳細に辿つてみると、次のとおりである。本件では調停主任判事谷本仙一郎および国分謙吉、阿部千一、吉田文一郎、佐藤邦雄の四調停委員により組織された調停委員会が調停を担当した。第一回の調停委員会は、昭和二八年七月一四日盛岡地方裁判所において当事者、その代理人等出席のもとに開かれたが、その席上では当事者双方の側からの事情聴取が行われただけであつた。佐藤調停委員は、同月下旬ころ当事者双方の側から調停を進めるのに必要ないつさいの資料の提供を受けてこれを検討した。次いで、佐藤、吉田両調停委員は、同年八月六日および七日の両日同裁判所に当事者、その代理人等の参集を求めて会合を開き、引き続いて双方から事情を聴取し、その席上で控訴人側から毛上とも山林原野五〇〇町歩余の解放を受けたい旨の案を、被控訴人側から毛上とも山林原野六〇町歩を贈与する旨の案を示された。この会合では、双方の主張に大きい開きがあり、交渉の進展は見られなかつた。佐藤、吉田両調停委員は、その後間もなく双方の関係者とともに本件山林原野の全域を調査した。次いで、佐藤調停委員は、同月一八日被控訴人側の希望を入れて小繋に出向き、当事者の一部、その双方にそれぞれ荷担する部落民等四、五十名を集め、一同に対し同調停委員がかつて五、〇〇〇町歩に及ぶ入会山林に関する紛争に関与し、これを調停によつて解決した事例などを話し、互に歩み寄つて事態の解決に努力すべきことを説得した。佐藤、吉田両調停委員は、さらに同月二九日および三〇日の両日にわたり同裁判所で当事者、その代理人、片野源次郎を交えた関係者十数名と会合して協議を続け、控訴人側から毛上とも山林原野二〇〇町歩および現金二五〇〇、〇〇〇円の提供を受けたい旨の案を、被控訴人側から毛上とも山林原野九〇町歩および現金一〇〇〇、〇〇〇円を贈与する旨の案を示されたが、双方にさらにある程度譲歩する意思がないわけではなく、その主張がかなり柔軟性のあるものであることを知つて、さらに考慮を求め、なお、被控訴人側から利害関係人全員参加の強い要望があつたので、その旨を控訴人側に伝えてその了解をえた。かように双方の主張がかなり接近してきたので、調停委員会の構成員五名は、同年九月一八日集合し、双方の案を検討したうえ、小繋、田子両部落の世帯主を利害関係人として本件に参加させること、鹿志村側は小繋、田子部落民に対し金二〇〇〇、〇〇〇円またはこれに相当する立木を提供し、実測一五〇町歩の山林原野を無償解放すること、右両部落民が解放地以外の係争山林原野につき入会権を有しないことを確認する方途を講ずることを主たる内容とする基本条項案を作成し、翌一九日同裁判所で当事者、その代理人、片野源次郎を含む関係者等出席のうえ開かれた調停委員会の席で双方に右案を示して考慮を求め、翌二〇日に続行した調停委員会の席で双方から右案を原則的に受諾する旨の回答をえたが、控訴人側から「高利貸から金を借りているが、調停の成立したことが新聞にでも書かれると、債権者に押しかけられ、債務の解決が不利になる。次回までにこの問題を解決したい」との理由で期日の続行を求められたので、その要望を入れ、なお、双方に対し利害関係人の参加、出頭代理等に関する書類を手落ちなく準備すべきことを指示したうえ、次回期日を同年一〇月一一日と指定した。ところで、控訴人およびこれに同調する部落民は、調停手続の開始以来、控訴人の一人で事実上訴訟において主導的役割をはたしてきた山本善次郎方等によりより集合して対策を協議したが、片野源次郎もたびたびこれに出席して協議に加わつていた。山本善次郎は、九月一九日の調停委員会で示された基本条項案を携えて部落に帰り、その後一〇月一一日の期日までの間に数回にわたり部落民と会合し、ことに、右期日の二、三日前に自宅に被告人小川市蔵を除く控訴人および利害関係人多数の参集を求め、もちろん片野源次郎をもこれに加え、右案を中心に討議したが、結局固まつた意向は、反鹿志村派の部落民側が前訴において第一、二、三審とも敗訴し後訴の第一審でも敗訴したこと、部落としてさらに訴訟を継続することの至難な事情にあること、被控訴人側のそれ以上の譲歩を期待しがたいことなどにかんがみれば、不満ではあるが、右案を飲むよりほかはない、ということであつた。他方、調停委員会の構成員は、右案を骨子としてさらに具体的な条項案を作成し、双方の代理人の意見をも徴してこれに技術的な整理を加えたうえ、最終の調停条項案を確定した。かくて、同年一〇月一一日同裁判所において同日の調停調書に出席者として記載されているところの当事者、その代理人、片野源次郎および被告人山本清三郎を含む利害関係人もしくは利害関係人兼利害関係人代理人全員出席のもとに調停委員会が開かれ、(利害関係人滝川金三および同藤田儀介代理人立花善一の出頭関係につき前項の説明参照)、席上調停主任判事が右確定案の各条項を朗読し、条項ごとにその趣旨を説明し、出席者全員に対し異議の有無を問い、片野源次郎から「悪い地域の山林を贈与されては困る、良い地域の山林を贈与されたい」との希望的申出があり、これに対し佐藤調停委員から「地域は当事者協議のうえ決定することになつているが、協議で決定のできない場合には、わたしと吉田調停委員とが裁定する。調停委員は裁判所の補助者であるから、良心に従つて公正な裁定を行う」と答え、片野源次郎もこれを了承し、他に異議を述べるものがなかつたので、調停委員会は、当事者双方および利害関係人全員間に全条項につき合意が成立したものと認め、調停主任判事が手続の終了を宣し、なお、調停委員国分謙吉、控訴代理人吉田久、被控訴代理人袴田重司らの挨拶があり、立会の裁判所書記官が調書を作成し、ここに、調停の成立を見るにいたつたのである。成立した調停の条項は、叙上のとおり九月一九日の案を骨子とするもので、その内容は、右調書に記載されているとおりであるが、その要点を「入会紛争のてん末」の項においてすでに摘示したから、ここでは再録しない。なお、原審第二四回公判調書中証人佐藤邦雄の供述記載によると、調停手続の全経過を通じ、控訴人側は概して協調的な態度を示したのに対し、被控訴人側を代理して折衝を受けていた鹿志村光亮が主張を固持して容易に譲らず、調停が比較的長引いたのも、もつぱら同人がたやすく折れなかつたことに基因し、調停委員の苦心も、主として同人を説得することに費されたものであることが認められる。以上の経過から勘案すると、当事者双方および参加人全員間に調停条項に関する合意が成立したことは疑がなく、ことに、その過程で積極的な動きを見せ、最後の調停委員会に利害関係人山火又三ほか一〇名の代理人兼利害関係人として出席した片野源次郎はもちろんのこと、同委員会に利害関係人として出席した被告人山本清三郎もまた調停条項の趣旨を十分理解したうえでこれを受諾したものと認めざるをえない。したがつて、被告人山本清三郎および弁護人が主張するように、同被告人および片野源次郎が右条項の意味するところを全く理解せず、その賛否の意思表示をするいとまも与えられずに手続終了を宣せられたものとは認められないし、また、右両名が黙示の意思表示により右条項を受諾したものとしても、該意思表示は、その条項の意味する重大性を全く理解しないでしたものであるから無効であるというがごとき論旨もこれを採用することができない。

(ヘ)、かりに控訴人、鹿志村以外の被控訴人および参加人全員の調停受諾の意思表示があつたとしても、それは要素の錯誤に基くものであるから無効であるとの主張について、

右錯誤論の要旨は、調停条項では、控訴人、鹿志村以外の被控訴人および参加人の全関係部落民が本件山林原野につき永年有していた入会権を抛棄する代償として、控訴人が現金二〇〇〇、〇〇〇円の贈与を、関係部落民全員が山林原野一五〇町歩の贈与を受けることになつているが、山本善次郎を除くその余の関係部落民は、山本善次郎が調停当時すでに訴訟に関して一〇〇〇〇、〇〇〇円に近い借財をし、受贈山林原野をことごとく贈与もしくは売買名義で他に処分してしまつたことを知らずにいたもので、もしそのことを知つていたならば、右のごとき調停条項には応じなかつたはずであり、また、右の事実を知らなかつたことにつき過失の責もないというのである。

(1)、原審第一一回および第一二回各公判調書中証人山本善次郎の供述記載≪中略≫によると、昭和二六年(ネ)第一九五号事件(第一審昭和二一年(ワ)第一三号事件)の控訴人(原告)の一人である山本善次郎は、その訴提起以来控訴人側の訴訟追行を主宰し、他の控訴人および部落民の一部の委任を受けて、訴訟に要する資金の捻出および支出を担当し、右事件と平行して審理を受けていた昭和二七年(ネ)第三〇号(第一審昭和二一年(ワ)第四〇号事件)についても事実上控訴人側から費用の収支を任せられ、同様の事務を受け持つていたものであることが認められる。次に、当審第六回公判調書中証人岩崎喜四郎および同吉田豊の各供述記載≪中略≫を綜合すると、山本善次郎は、昭和二四年一一月一日から昭和二六年九月二三日までの間に岩手県岩手郡岩手町大字川口第三地割九二番地の二岩崎喜四郎から合計金六七八、七八〇円を、昭和二六年一一月一三日から昭和二七年八月一八日までの間に同郡葛巻町新町第一二地割二四高橋吟太郎から合計金二一九〇、〇〇〇円を、昭和二七年ころから昭和二九年四月一日までの間に福島県平市長橋町七四番地常磐坑木株式会社から合計金五四二、〇〇〇円をそれぞれ調達したことが明らかである。もつとも、常磐坑木株式会社関係の金の中には、山本善次郎が調停成立時の昭和二八年一〇月一一日以降に入手した分も何がしか含まれているものと認められる。それはともかくとして、山本善次郎が訴提起後他より少くとも総計八二九二、七八〇円の資金を入手したことは疑がない。右資金の支出関係は、はなはだ明らかではないが、原審第一二回公判調書記載の山本善次郎の証言によると、同人は右の総計額どころではなく、九〇〇〇、〇〇〇円を越える額の金を全部事件に関して支出したことになるのである。訴訟の起きたのが昭和二一年で、それが調停によつて終了したのが昭和二八年であるから、事件の処理におよそ七年の長い歳月を要したわけであり、前掲訴状、各判決書および調停調書によると、事件に控訴人(原告)として関与した者が二〇名ないし二二名(数の増減は訴訟承継による)、訴訟代理人が六名であり、右公判調書記載の山本善次郎の証言によると、開かれた口頭弁論期日等が七〇回を越えており、取調を受けた証人等も相当多数に上ることが事案の性質から推測される。したがつて、山本善次郎が事件の処理に少なからざる訴訟費用(法廷の訴訟費用を含む訴訟および調停に関して支出したいつさいの費用、以下同じ)を支出したことは、容易に推認しうるのである。しかし、右の事件係属期間、関係者の数を考慮し、事実の性質を勘案しても、山本善次郎が訴訟費用として八〇〇〇、〇〇〇円とか九〇〇〇、〇〇〇円というがごとき巨額の金を支出したということは、想像を絶することであつて、調停委員でかつ訴訟の専門家である証人佐藤邦雄が原審第二四回公判調書中で述べているように常識ではとうてい考えることができない。当裁判所の証人吉田久および同福田耕太郎に対する各尋問調書によれば、両事件の控訴人側から委任を受け代理人として終始事件に関与した吉田久および福田耕太郎は、部落の者は貧しくて金を出せないというので、着手金も受け取らず、出張旅費も弁護士会の規定どおりの支払を受けないで、ただ往復滞在の実費のみの支払を受け、それさえも控訴審に移つてからはほとんど出ないため、立替払いをしていたというのである。前記各尋問調書には右の事情のほかに費用に関する詳細な問答が出ているのであるが、以上により考察すると、その要した訴訟費用が山本善次郎のいうほどにしかく膨大な額に上るものと認めることはできない。すなわち、山本善次郎が他より調達した資金のうちの相当多額の部分が―証拠によりその額を確定することはできないが―訴訟費用以外の、隠れた不明の費途に流用されたものと推認せざるをえない。しかして、山本善次郎の右のごとき訴訟費用以外の費途への支出は、もとより前記委任の範囲に属しないのであつて、山本善次郎自身の責任に属し、調停に関係した部落民中控訴人以外の者はもちろん、山本善次郎以外の控訴人においても責を負うべき筋合のものではない。控訴人以外の部落民が控訴人側の訴訟追行に要した訴訟費用を負担すべき法律の義務のないことは、いうまでもない。調停条項も、「本件訴訟について支出したいつさいの費用および本調停に関する費用は、控訴人および被控訴人の各自弁とする」と定め、控訴人以外の関係部落民に控訴人側の訴訟費用の負担を命じてはいないのである。

(2)、訴訟に費用のかかることは、公知の事実である。調停に関係した部落民は、すべて生活の豊かでない山間の住民で、訴訟をするにしても、自分らの手でその費用をまかなうだけの資力のないことを彼ら自身が最もよく知つている。かつて大正六年から昭和一四年までの二十数年にわたる、一部部落民を当事者とする訴訟を経験した彼らとしては、昭和二一年から始まつた問題の訴訟においても、少なからざる訴訟費用を要することを当初から予想していたものと認めざるをえないし、また、訴訟開始以来第一審を経由し、第二審に係属してすでに七年を経過した調停当時においては、右の期間中に訴訟追行を主宰した山本善次郎が他から資金を借り受けて、訴訟費用をまかなつてきたことを、部落の常識として一般に知つていたものと認めなければならない。部落全体の利害に影響を持つところの、被告人らがこぞつて訴えるところによればその結果いかんが部落の存亡にかかわるような重大な訴訟について山本善次郎の行つている費用のやりくりを、その近隣に住んでいる部落民一般が全然知らないでいたというようなことは、ありえない。控訴人側訴訟当事者については、訴訟費用の支出に関する認識が右程度にとどまるものと認めることはできない。事柄は直接自分自身に関係している。当事者は、みずから訴訟の渦中にあつて、六名の弁護士に委任し、約七年間の訴訟をともかくも支障なく継続してきたのであつて、その間に訴訟費用の捻出および支出を担当した山本善次郎が他から相当多額の資金を仰いで訴訟費用を支出してきたことを、調停当時当然知りかつ銘記していたものと認めなければならない。当事者が訴訟に関心を持つ他の一部部落民とともに訴訟費用の支出に関し相当深い認識を持つていたものと認めざるをえない事情も存在するのである。すなわち、(1)の冒頭において引用した証拠(証人吉田久に対する尋問調書を除く)によると、昭和二六年(ネ)第一九五号事件の山本善次郎を除くその余の控訴人全員(被告人小川市蔵および同立花金作を含む)ならびに他の部落民一一名(被告人山本清三郎および同山本定蔵を含む)が訴提起の直後ころの昭和二一年三月五日山本善次郎に対し訴訟その他の係争問題処理に関する全権を委任する趣旨と解せられる委任状を与えたが、該書面の委任事項の細目中に「一筆、二筆売却しても最後まで裁判を続行すること」という項目を掲げていること、さらに、右事件の山本善次郎および被告人小川市蔵を除くその余の控訴人全員および他の部落民五名(被告人山本定蔵を含む)が昭和二六年五月六日山本善次郎に対し訴訟事務、訴訟費用の捻出および支払ならびにその支払のための立木の処分に関するいつさいの件を委任する旨の委任状を交付したことが認められる。右各委任状には山本善次郎の捻出し支出すべき費用の額につき制限を付した事跡を認めえないから、いずれも通常訴訟の追行に要する費用全部の捻出および支出をその額にかかわりなく同人に一任した趣旨のものと認めなければならない。次に、原審第一二回公判調書中証人山本善次郎の、訴訟費用の支出に関する供述記載のうちに「調停のできる前に部落の人たちが毎晩のように私のところへ来ていたので、その人たちにどうしても七、八百万円になるんじやないかといつていた」旨の供述記載がある。当裁判所の証人福田耕太郎に対する尋問調書によると、控訴代理人である同証人は、山本善次郎が岩崎喜四郎、高橋吟太郎および常磐坑木株式会社から資金を仰いでいることを訴訟係属中に知つており、調停成立当時、おそらく部落民側に贈与された山林原野の立木の一部または全部が費用に当てられるようなことになるだろうが、地盤は残るから、植林でもしてやつてゆけばよいと考えていたというのであるが、右尋問調書には、「一審か二審の当時山本善次郎方に泊まり、部落の人五、六人も同席してこたつで一杯やつているところへ岩崎がどなり込んできて、貸金の返済を迫り、悪口雑言して、大分騒いだことがあつた」旨の供述記載がある。なお、昭和二八年九月二〇日の調停期日において、被控訴人側のみならず控訴人側も調停委員会の基本条項案を原則的に受諾したが、控訴人側が調停成立前に債権者との関係を解決したいという理由で期日の続行を求めたことは、さきに説明したとおりである。以上を綜合して考察すると、控訴人側訴訟当事者は、訴訟費用資金の捻出および支出を担当した山本善次郎が相当多額の資金を調達してこれを訴訟費用として支出したことを調停当時知つており、昭和二六年(ネ)第一九五号事件の山本善次郎以外の控訴人のほとんど全員のごときは、他の一部有志の部落民とともに、将来訴訟の結果により本件山林原野における立木伐採権を認められるべきことを予想して、山本善次郎に対し右立木によつてまかなえうる程度の額の訴訟費用資金を捻出し支出する権限を委任し、したがつて、同人においてそのとおり実行することをもちろん了解しており、山本善次郎方に調停成立前に出入していた者のうちのある者は、山本善次郎が七、八百万円の金(その全部を訴訟費用と認めがたいことは、さきに説明したとおりである)を支出したことをも知つていたものと認められる。

(3)、山本善次郎が岩崎喜四郎から金六七八、七八〇円を、高橋吟太郎から金二一九〇、〇〇〇円を、常磐坑木株式会社から金五四二四、〇〇〇円を調達したことは、さきに説明したとおりである。ところで、当審第六回公判調書中証人岩崎喜四郎および同吉田豊の各供述記載≪中略≫によると、山本善次郎は、昭和二四年一〇月三〇日、岩崎喜四郎との間に、同人において訴訟に必要な経費を負担し、訴訟において控訴人側が入会権の確認をえて立木伐採が可能になることを停止条件として、同人に字新館林八七番の二ほか一筆の山林内の立木全部および字小繋一二二番の一ほか四筆の山林内の立木中松、杉、唐松、栗等の目通り径五寸以上のもの全部を贈与し、以上の立木中判決により履行不能になるものがある場合には、協議のうえこれを除外し、または他と代替する旨の契約を結び、高橋吟太郎との間に、昭和二六年一一月一三日、同人に対し字小繋所在の、契約書添付の要図の示す区域内の赤松立木全部を代金五五〇〇、〇〇〇円で売り渡し、同人において売買契約金一五〇〇、〇〇〇円を昭和二七年三月二日までに請求次第分割して支払う旨の契約を、同年五月一七日、同人に対し字西田子所在の、契約書添付の要図の示す区域内の赤松立木全部を代金五〇〇〇、〇〇〇円で売り渡し、同人において売買契約金六九〇、〇〇〇円中金三九〇、〇〇〇円を同日支払い、金三〇〇、〇〇〇円を同年六月一五日までに支払う旨の契約を結び、昭和二八年七月五日、常磐坑木株式会社との間に、同会社に対し字小繋一二二番の一および字新館林八七番の二山林内の赤松、唐松見込八、〇〇〇石を石当り八〇〇円で、同山林内の雑木見込二〇、〇〇〇石を石当り三〇〇円で売り渡す旨の契約を結んだこと、山本善次郎が岩崎喜四郎から受け取つた六七八、七八〇円の金は、同人との契約の経費負担の条項に基くものであり、高橋吟太郎から受け取つた二一九〇、〇〇〇円の金は、同人との契約の売買契約金支払の条項に基くものであり、常磐坑木株式会社から受け取つた五四二四、〇〇〇円の金は、同会社との契約にかかる売買代金の内金名義のものであることが認められる。高橋吟太郎および常磐坑木株式会社との各契約にはなんらの条件も付せられていないが、当審受命裁判官の証人高橋吟太郎に対する尋問調書≪中略≫によると、右各契約は、岩崎喜四郎との契約と同様に、控訴人側が将来勝訴し、本件山林原野における立木伐採権が確認されることを停止条件とする売買契約であり、高橋吟太郎および常磐坑木株式会社が山本善次郎に交付した金は、実質的には控訴人側の勝訴を見越して行つた融資であつて、条件が成就し、契約が発効した暁には売買代金の内金に振り替えられるべき性質のものであることが認められる。なお、高橋吟太郎との契約において売買の目的とされた立木が調停において部落側の所有に帰した山林原野内の立木を含むかどうかは、証人高橋吟太郎に対する尋問調書によれば契約書添付の要図が紛失されたため明らかではないが、岩崎喜四郎および常磐坑木株式会社との各契約において売買の目的とされた立木が調停において部落側の所有に帰した山林内の立木を含むことは、それぞれの契約書写と前掲調停委員吉田文一郎および同佐藤邦雄連名の裁定書(昭和三一年領第一一二号の八)とを対照すれば明らかである。ところで、以上の岩崎喜四郎との贈与契約ならびに高橋吟太郎および常磐坑木株式会社との各売買契約については、その履行に関しきわめて困難な問題を生ずる。叙上のとおり各契約は、いずれも停止条件付契約である。調停が成立し、裁定が行われて部落側が約一五〇町歩にわたる特定の山林原野を取得したことは、条件の成就とみなすべきものと認められるから、これにより各契約は発効したものということができる。しかし、その発効と同時に各契約の目的である立木の所有権が当然に相手方の岩崎喜四郎、高橋吟太郎および常磐坑木株式会社に移転したものということはできない。各契約の目的たる立木中調停によつて部落側の取得した山林原野内に生立する分(岩崎喜四郎との契約の目的とされた立木中右山林原野内に生立する立木以外の分で、契約条項に基く協定により右山林原野内に生立する分に代替されたものがあるとすれば、その分をも含めて)は性質上その取得者である関係部落民全員の共有に属する。関係部落民の一人で、立木の処分等につき一部関係部落民のみの委任を受けた山本善次郎において関係部落民全員の共有する立木を処分する権限を有しないことは、当然の理である。各契約の目的たる立木中のその余の部分は、鹿志村の完全な所有に属し、山本善次郎がこれを処分する権限を有しないことは、いうまでもない。贈与者もしくは売主がその贈与もしくは売買の目的につき処分権を有しない場合に、その所有権が該契約の発効により当然に受贈者もしくは買主に移転するということはありえないのである。すなわち、山本善次郎は、岩崎喜四郎、高橋吟太郎および常磐坑木株式会社との各契約の発効により以上の者にそれぞれ契約の目的たる立木を引き渡す義務を負うのであるが、関係部落民全員の共有に属する分については、共有者全員の同意がなければこれを処分することができないのであり、鹿志村の所有に属する分については同人の承諾をえなければこれを処分することができないのである。ところが、鹿志村においてそのような承諾を与えるはずがないことは、調停の趣旨に徴しても明らかであり、関係部落民中控訴人以外の者は、控訴人側の訴訟追行に要した訴訟費用を負担する義務を負わないのであるから、関係部落民全員の共有する立木を控訴人側の訴訟費用捻出のために負うた債務の引き当てとして引き渡すことに全部が全部同意するとは考えられない。ことに、関係部落民中の約半数の者は、鹿志村派に属し、そのうちの立花鉄郎および川口甚之輔のごときは被控訴人である。それらの者が反対派の主流をなす控訴人側の負うている債務のために調停によつて折角取得した権利を犠牲にすることなどを承諾するはずがない。この間の消息は、当審第四回公判調書中証人立花善一の供述記録≪中略≫により明らかであるとおり、鹿志村派に属する立花善一は、当初訴訟費用を負担させられては困るということで調停に参加することを拒絶していたが、佐藤調停委員からそのような心配はいらないからといわれてこれに参加したこと、常磐坑木株式会社が調停成立後部落側の取得した山林の立木を伐採するため該山林に立ち入るや、立花善一一派の者は、すかさず同会社を相手取つて伐採禁止等の仮処分を請求してその旨の決定をえ、同会社の締結した前記売買契約の無効確認請求等の訴を提起したことからもこれを窺うことができる。ひつきよう、山本善次郎の結んだ本件山林原野内の立木を目的とする贈与契約および売買契約は、該契約に基く贈与者もしくは売主側の債務に関するかぎり履行不能に陥るべきものであつて、関係部落民が調停によつて取得した山林原野に対する権利を害することはないのである。当審第六回公判調書中証人岩崎喜四郎および同吉田豊の各供述記載≪中略≫によると、岩崎喜四郎および高橋吟太郎は、結局契約にかかる立木については一本の引渡も受けることができず、常磐坑木株式会社も叙上のとおり右山林に立ち入つた直後仮処分を受け、結局契約どおりの履行を受けることができなかつたことが明らかであるが、右は当然の成行というのほかはない。

以上を要約すると、山本善次郎が資金を捻出するため係争山林原野の立木を目的として結んだ贈与契約および売買契約は、調停によつて取得した関係部落民の権利を害するものではない。したがつて、かりに調停成立当時関係部落民中に右契約のことを知らずにいた者があつたとしても、その者の調停条項受諾の意思表示をもつて要素の錯誤によるものということはできない。山本善次郎が資金捻出のため負担した債務は、依然債務として残る。しかし、右資金中山本善次郎が訴訟費用以外の費途に向けたと認められる部分については、同人自身が責を負うべきもので、控訴人以外の関係部落民はもちろん、山本善次郎以外の控訴人においても責を負うべきかぎりではない。右資金中山本善次郎が訴訟費用に当てた分については、控訴人が責を負うべきであるが、それ以外の関係部落民が責を負うべきいわれがなく、山本善次郎以外の控訴人としても、山本善次郎に訴訟費用の収支をすべて一任したものである以上、これを了解していたものと認められる。結局、山本善次郎が資金を捻出し支弁したこと自体も、関係部落民の調停条項受諾の意思表示に錯誤を生む因子とはならなかつたものというべきである。

(ト)、調停条項に基く裁定書が利害関係人兼利害関係人山火又三ほか一〇名代理人片野源次郎に送達されなかつたとの主張について、

片野源次郎が本件調停の成立した昭和二八年一〇月一一日の調停委員会に利害関係人兼利害関係人山火又三ほか一〇名の代理人として出頭したこと、調停条項において、被控訴人鹿志村亀吉および同鹿志村善次郎が控訴人、その余の被控訴人および利害関係人全員に対し字新館林八七番の二を基調として人工天然造林地でない土地約一〇〇町歩および字西田子七三番の二の一を基調として人工天然造林地でない土地約五〇町歩その合計実測一五〇町歩を贈与し、右贈与の目的たる土地の選定は、双方の協議によつて行うが、その協議が昭和二八年一〇月二〇日までに成立しない場合には、双方は調停委員佐藤邦雄および同吉田文一郎の裁定に従うものとし、その裁定に対してはともに異議を述べないと定められたこと、右贈与の目的たる土地の選定についての双方の協議が所定の期日までに成立しなかつたため、調停委員佐藤邦雄が同年一二月一三日ころ岩手県の小坂技師ほか二名の援助をえて実地を踏査したうえ、その範囲を定め、昭和二九年一月六日調停委員吉田文一郎とともにこれを裁定したことは、さきに説明したとおりである。ところで、昭和二六年(ネ)第一九五号および昭和二七年(ネ)第三〇号事件の併合記録に編綴されている調停委員吉田文一郎および同佐藤邦雄名義の裁定書≪中略≫によると、調停委員佐藤邦雄は、調停委員吉田文一郎とともに贈与の目的たる山林原野の範囲を裁定し、同調停委員との連名の、右山林原野の地番、面積等の記載のある、実測図面および実測台帳各二葉添付の裁定書を作成し、これを裁判所に送付したが、その正本を関係者に送達する際、利害関係人兼利害関係人山火又三ほか一〇名の代理人片野源次郎の関係では、同人の居住部落の字小繋に居住する、同人の兄に当る利害関係人片野源八を利害関係人山火又三ほか一〇名および片野源次郎の代理人と誤認し、片野源八に裁定書正本を送達して、片野源次郎にはこれを送達しなかつたことが認められる。

民事調停法第一六条は、調停において当事者間に合意が成立し、これを調書に記載したときは、調停は成立したものとし、その記載は、裁判上の和解と同一の効力を有すると規定している。すなわち、合意された調停条項の調書への記載(調書の成立)が調定の成立ならびに効力発生要件なのであつて、その記載と同時に条項の定める権利関係が当事者(参加人を含む)を拘束する具体的規範となるのである。本件では合意された調停条項が調書に記載された。したがつて、その記載と同時に、調停は成立しかつ効力を発生したもので、当事者は、その条項の定める権利関係に従うべき義務を負担したのである。もつとも、右条項の定める権利関係中土地の贈与については、その目的が該条項によつては具体的に確定せず、当事者の協議または調停委員の裁定によつて確定する。しかし、この目的の確定は不能なのではない。調停はやはり調書への記載と同時に効力を生じていたのであつて、ただ、条項の定める権利関係中土地の贈与の部分にかぎりその履行が目的の確定にかからしめられていたにすぎない。

次に、本件の贈与土地の選定については、当事者の協議が成立しなかつたため、調停委員が裁定し、裁定書を作成した。裁定の内容は、調停調書の内容を補充し、これと一体をなすもので、明確にされることを要するから、書面によつて明らかにされ、裁判所の一件記録にとどめられるべきものである。しか。、贈与の当事者に対する関係では、なんらかの方法でそれらの者に裁定の内容を認識させる方法を講ずれば足り、とくにこれを書面に記載して送達することは、望ましいことではあるが、必ずしも必要ではなく、いわんや、その書面の送達をもつて調停そのものの効力発生要件と認めることはできない。本件では、裁定書が裁判所に送付され、記録に編綴された。しかも、調停条項では、贈与の目的たる土地の細目は確定されていないとはいえ、確定されるべき土地の面積、その基調をなすべきものの地番等を知りうる程度には示されているのであるが、原審第一四回公判調書中証人鹿志村光亮の供述記載≪中略≫を綜合すると、調停委員佐藤邦雄は、裁定を実施するにあたり、昭和二八年一二月一三日現場に臨み、控訴人のほとんど全員、片野源次郎を含む利害関係人数名立会いのもとに、調停条項所定の字新館林八七番の二および字西田子七三番の二の一を基調とし、同行の県技術吏員三名の意見を徴して中等度以上の部分を選び、その範囲を同人らに指示し、これに依頼して翌二九年一月初めころまでの間に部落民立会のもとに測量を行い、その境界を明認しうる措置を講じ、もつて、贈与の目的たる土地の範囲を客観的に認識しうる程度に特定し、その後贈与者鹿志村側においてその土地を自由に使用収益しうる状態にしてこれを受贈者たを関係部落民に引き渡したことが認められる。されば、調停条項は、土地の贈与に関する部分についても完全に実現され、その履行が完了されたものというべきである。のみならず、片野源次郎は、叙上のとおり調停委員佐藤邦雄の行つた裁定のための現地踏査に立ち会つて、贈与の目的たる土地の範囲を実地につき知りえたものと認められ、また、原審第一〇回公判調書中証人片野源次郎の供述記載≪中略≫によると、片野源次郎は、片野源八および被告人山本清三郎から右両名にそれぞれ送付された裁定書を見せられて、その土地の地番、面積、図面上の範囲等をも認識したものと認められる。したがつて、片野源次郎が裁定書正本の送達を受けなかつたことによる不当な結果は、結局生じないですんだものということができる。片野源次郎に送達すべき裁定書を誤つて片野源八に送達したことが手落であることは、いうまでもない。しかし、そのゆえに調停がまだ効力を生じていないと判断することは、相当ではない。

以上の説明において調停無効の論拠として主張される点がいずれも理由のないことを明らかにした。一件記録を仔細に検討し、当審における事実取調の結果を参酌しても、他にその無効原因の存在を認めることができない。されば、調停は、その条項の定める内容に従つて効力を発生したものであつて、関係部落民は、その条項の定めるとおり、贈与を受けた山林原野以外の、被控訴人鹿志村亀吉および鹿志村善次郎の完全な所有に属することの確認を受けた山林原野については、入会権その他なんらの権利を主張しえず、したがつて、同山林原野内の立木を伐採する権原を有しないものといわなければならない。被告人山本清三郎、同小川市蔵、同立花金作、同山本満雄および同山本定蔵が本件において訴追を受けている立木伐採の事実は、いずれも調停により右被告人らを含む関係部落民の取得した山林原野以外の、鹿志村亀吉の完全な所有に属することの確認を受けた山林において行われたのである。したがつて、右被告人らは、なんらの権原なくして鹿志村亀吉所有の立木を伐採したものといわなければならない。

丁、犯意にないて、

被告人全員は、原審以来こぞつて被告人斎藤実および同藤本正利を除くその余の被告人が今日もなお本件山林原野全部につき父祖伝来の入会権を保有し、立木を伐採する権原があることを確信している旨強調している。反鹿志村派の部落民立花源八ほか一一名が大正六年初代鹿志村亀吉および鹿志村派の部落民立花松次郎ほか一一名を相手取つて本件山林原野の一部につき入会権を有することの確認等を求める旨の訴を提起したが、昭和一四年までの長い訴訟において第一、二、三審とも敗訴の、該判決が確定したこと、昭和二一年反鹿志村派の部落民の被告人小川市蔵および同立花金作ほか九名が二代鹿志村亀吉および鹿志村派の部落民立花鉄郎ほか一名を被告とし、反鹿志村派の部落民立花義雄ほか七名が二代鹿志村亀吉および鹿志村善次郎を被告とし、いずれも本件山林原野の一部につき入会権を有することの確認を求める旨の訴を提起したが、第一審で敗訴し、控訴審に係属中裁判所が両事件を職権調停に付し、これを併合し、当事者以外の、被告人山本清三郎および同山本定蔵を含む関係部落民を利害関係人として参加させたうえ、調停を試みた結果、昭和二八年一〇月一一日、控訴人、鹿志村以外の被控訴人および参加人の関係部落民全員は、将来本件山林原野につきなんらの権利を主張せず、それが鹿志村の所有であることを確認し、鹿志村側から控訴人全員に金二〇〇〇、〇〇〇円を、関係部落民全員に山林原野一五〇町歩を贈与することを主たる条項とする調停が成立したこと、控訴人である被告人立花金作ほか六名が昭和二八年一二月一四日調停の無効を主張して第二審裁判所に口頭弁論期日指定の申立をしたが、同裁判所は、昭和三〇年七月二八日言渡の判決をもつて各訴訟は調停によつて終了した旨をもつて、右申立を排斥し、該判決が確定したことは、さきに説明したとおりである。大正六年(ワ)第四一号事件、昭和七年(ネ)第一三五号事件および昭和一一年(オ)第二、一一六号事件の各判決書にさきに引用した裁判官小野寺文平の小鳥谷村長あて照会書および同村村長高屋敷与五郎の同裁判官あて報告書を綜合すると、被告人山本清三郎および同山本定蔵は、前訴の当事者の口頭弁論終結前の承継人であり、被告人小川市蔵および同立花金作は、前訴の当事者の口頭弁論終結後の承継人であることが明らかであり、かつ、叙上のとおり被告人小川市蔵および同立花金作は、後訴および調停の当事者であり、被告人山本清三郎および、同山本定蔵は調停の参加人である。したがつて、右被告人四名がその関係した訴訟ないし調停の結果を知らぬはずがない。右被告人らがそれのみでなく永年にわたる争の経過および結果の全貌をほとんど知つていたことは、被告人山本清三郎の検察官に対する昭和三〇年一一月三日付および同月七日付各供述書≪中略≫により明らかである。被告人山本満雄の検察官に対する昭和三〇年一一月一日付、同月二日付および同月七日付各供述調書によると、被告人山本満雄は、被告人山本定蔵の子であつて、争訟および調停の経過および結果をおおむね聞いて知つていたことが認められる。被告人斎藤実の検察官に対する昭和三〇年一二月六日付供述調書≪中略≫によると、被告人斎藤実は昭和二九年一月ころから、被告人藤本正利は昭和三〇年五月ころから、いずれも字小繋部落に居住して入会問題を巡る紛争を調査研究し、部落民を指導援助していたものであることが明らかであるから、右被告人両名もまた争訟および調停の経過および結果を知得したものと認められる。すなわち、以上の被告人全員は、その属するあるいは支持する反鹿志村派が前訴では第一、二三審とも入会権を否定されて敗訴し、後訴の第一審でも同様敗訴し、その第二審で成立した調停によれば、本件山林原野中部落側への贈与分以外のものが全部鹿志村の所有に属することの確認を受けて、これにつきなんらの権利をも主張しえないものとされ、調停に対する期日指定の申立も排斥されたことを十分認識していたわけである。それにもかかわらず、右の被告人全員が本件の公訴にかかる立木伐採搬出当時本件山林原野の全域にわたつて入会権を依然保有していたことを真底から確信していたものとは、常識上とうてい考えることができない。反鹿志村派は、部落民がなお入会権を失つていないという主張の理由づけについてもとかくの論議をしている。しかし、右の被告人全員が再三に及ぶ裁判や調停の権威をいつさい否定し、ゆるぎない信念をもつて右の主張を固執しているものと考えることは、法治国民の通有する法意識がこれを許さない。被告人山本定蔵は、検察官に対する昭和三〇年一二月三日付供述調書において、被告人立花金作は、検察官に対する昭和三〇年一〇月二七日付供述調書において、本件で共犯者とされている山本孝は、検察官に対する昭和三〇年一〇月二六日付供述調書において、同じく共犯者と目されている立花甚四郎は、検察官に対する昭和三〇年一一月二八日付供述調書において、それぞれ訴追を受けている立木伐採もしくは伐採木運搬の行為を顧みて感想を披歴している。すなわち、被告人山本定蔵は、「私たち調停反対派は、……立入禁止になつていない裁判上も台帳上も鹿志村の山になつているところの山を選んで切つていたのです。その山の木を切ることは、入会権を主張する調停反対派全員で決めたことですから、私ばかり脱退することは、仲間を裏切る卑怯者になるので、絶対切つてもよいのだという自信もなく、悪いことだとは思いながらも、今までずるずる引きずり込まれて、私だけでなく、子供までもまき込んで、鹿志村の山を切つていたわけで、その取決めをしたのも、最初は入会権を生かすためそうしなければならないのだと早稲田の学生や斎藤、藤本それに源次郎、清三郎ら調停反対派の重だつた人から教え込まれてやるようになつていたのです。私は自分で悪いことだと知りながら鹿志村の山から木を切つたので、今後はそんな取決めをする仲間から脱退して正しい道を歩もうと考えています」と述べ、被告人立花金作は、「それは部落で決めてやつたこととはいえ、調停有効の最終的判決も出たことであり、もともと、その山の所有権は、鹿志村にあり、われわれが入会権を主張して四〇年来訴訟で争つてきたのに、一回も勝つたことがなかつたといういきさつもあり、その山から立木を盗んで運んだのですから、そのときに当然今回のように問題になるということは、わかつていたのです。いまでは悪いことをしたという気持でいます。いくら生活に困るといつても、法律に触れることはすべきでないことを痛感しました」と述べ、山本孝は、「切つても大丈夫だろうと思いましたが、今までも問題の山であるし、七月に判決が出て騒いだりしているので、あるいは切つたために問題を起すのではないかという気持はありましたが、判決書も見ていないので、いいだろうと思つて切つたのです」と述べ、立花甚四郎は、「私は法律に違反し、泥棒の罪になつたとしても、入会権を主張するためにはしかたありません。そのことは十分心得てこれまで盗伐をしてきましたし、これからも継続して切るつもりでおります」と述べている。同一もしくは同種の行為につき訴追を受けている他の被告人も、その行為につき当時同様の意識を、その深浅の差はあれ、持つていたものと認めざるをえない。すなわち、以上の被告人は、調停による贈与分以外の山林で本件立木を伐採しあるいは伐採した木を運搬する当時、該山林が鹿志村の所有に属し、部落民がこれにつきなんらの権利を有せずしたがつて立木伐採の権原のないことを少くとも未必的には知つていたものといわなければならない。

戊、結び

以上の判断の結果から結論すると、本件公訴にかかる被告人山本清三郎、同小川市蔵、同立花金作、同山本満雄および同山本定蔵の森林の立木を伐採した所為は、森林法第一九七条にいわゆる森林窃盗の罪を構成し、被告人立花金作、同斎藤実および同藤本正利の、右の伐採された木を運搬した所為は、同法第二〇一条第二項の森林窃盗の物を運搬した罪を構成する。原判決が、本件山林原野の権利関係を定めた調停が若子内与三郎がこれに参加しなかつたことおよび裁定書が片野源次郎に送達されなかつたことを理由に無効であるとし、部落民が従前どおり本件山林原野につき入会権を保有しているから、右伐採行為は、入会権の行使として当然容認される行為であり、したがつて、右運搬行為もまた違法行為ではないとして、以上の被告人の罪責を否定したのは、事実の誤認によるものであり、この誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかである。

論旨は理由がある。

(第四)職権調査

本件山林原野は、古来小繋御山と総称された旧南部藩の所領の大部分にあたり、小繋部落に居住する長楽寺の住職千歳坊立花喜藤太(累世襲名)なる者が代々藩庁より御山守を命ぜられ、その監守に任じていたが、部落民はもとより御山守たる立花喜藤太自身さえも、その山林原野より建築用材、薪炭材などを伐採するには藩庁の許可を要するものとされていたにかかわらず、現実には、部落民は、永年にわたり、立花喜藤太の統制に服し、同人に対し労役および豆麦等を提供し、同人の承諾をえたうえ右山林原野に立ち入つて自家用の建築用材、薪炭材などを伐採し、果実類を採取し、秣を刈り取り、牛馬を放牧したりなどして、その使用収益を続けてきたのであり、すなわち、部落民は、永年にわたる事実的慣行に基き右山林原野につき御山守立花喜藤太の統制に服しながらも、いわゆる共有の性質を有しない入会権を有していたものであること、右山林原野が明治初年の土地官民有査定処分においてその管理、使用収益の実態に着目して立花喜藤太の私有地と査定され、その後転々所有者を変え、明治四〇年に初代鹿志村亀吉の所有に帰したが、部落民は、それまで所有者の変更にかかわりなく右山林原野につき従前どおりの内容の入会権を有していたことは、さきに説明したとおりである。原判決もまたその理由中において部落民の右山林原野に対する使用収益関係につき右に説示したところと同旨の事実を認定している。ところで、部落民の有していた入会権は、右山林原野からたとえば建築用材や、薪炭材などを好むとき好む量を所有者の承諾なしに無条件で伐採することのできるような無制限な権利であるのではなく、所有者の統制に服し、これに対価的なものを給付し、その承諾をえる等の要件を伴うところの、その行使を制限されている権利である。したがつて、部落民が入会権の名において右山林原野を使用収益しても、右の要件を満たさないかぎり、この使用収益を目して入会権の行使と認めることはできない。しかるに、本件において、被告人山本清三郎、小川市蔵、同立花金作、同山本満雄および同山本定蔵が右山林原野の一部で立木を伐採するについて、右の要件を満たした事実は、原判決がその理由中に掲げる証拠によりこれを認めるに由ないばかりでなく、原審で取り調べたその余の証拠および当審における事実取調の結果によつても、これを認めることができない。したがつて、原判決が認定するように以上の被告人が右立木伐採当時共有の性質を有しない入会権を依然保有していたものと仮定しても、右立木伐採行為をもつて入会権の行使と断ずることはできない。しかるに、原判決は、右立木伐採行為が入会権行使の要件に適合するかどうかについては一顧も与えることなく、卒然としてこれを入会権の行使として当然容認される適法行為であると判断した。原判決にはこの点において理由不備の違法がある。

付言するに、論者は、あるいは、鹿志村側は部落民の入会権を認めないのであるから、部落民に対し入会権行使の要件を満たすことを期待しえないというかもしれない。調停条項によれば、部落民は入会権を主張しえないのであるから、鹿志村側がこれを認めないのは当然である。部落民が入会権を主張してこれを行使するには、その権利の性質上鹿志村側の協力を必要とする。その協力をえるためには、まず部落民において入会権を主張しえないとしている調停が許容される手続に従い権威ある機関によつて取り消されなければならない。その取消があるまでは関係当事者は調停に拘束されるのである。裁判、調停等によつて具体化された法秩序は尊重されなければならない。この秩序を否定してまでも自分の利益を実力をもつて実現しようとすることは、許されるべきことではない。

よつて、被告人山本清三郎、同山本ヨシノ、同小川市蔵、同立花金作および同山本満雄の各控訴は理由がないので、刑事訴訟法第三九六条によりこれを棄却し、検察官の控訴はその余の控訴趣意につき判断するまでもなく理由があるので、同法第三九七条第三八二条第三七八条により原判決中被告人山本定蔵、同斎藤実および同藤本正利に関する部分を破棄し、原判決が無罪の言渡をした被告人山本清三郎、同小川市蔵、同立花金作および同山本満雄の各森林法違反の事実と原判決が有罪の言渡をした同被告人らの原判示罪となるべき事実とは併合罪であつて、全部が一個の刑をもつて処断されるべき関係にあるから、原判決中同被告人らに関する無罪部分および有罪部分全部を破棄し、同法第四〇〇条但書により当裁判所は右各部分につき次のとおり判決する。(当裁判所の認定した―原裁判所が無罪の認定をした森林法違反の事実に代るべき―罪となるべき事実)

第三、

(一)、被告人山本満雄および同山本定蔵は、少年山本孝と共謀のうえ、昭和三〇年九月二〇日ころから同年一〇月六日ころまでの間三回にわたり、岩手県二戸郡一戸町大字小繋字小繋一二二番地の一および二所在の鹿志村亀吉(二代、以下同じ)所有にかかる俗に耳沢山と称する森林において、同人所有の杉立木合計約二〇本を伐採して、これを窃取し、

(二)、被告人立花金作は、同年九月二二日ころ肩書自宅において被告人山本満雄から同被告人らが(一)記載のように盗伐した杉を丸太にしたものの運搬方を依頼され、その情を知りながら、少年山本孝、同片野清ほか数名の者と共謀のうえ、同日杉丸太長さ約六米のもの、約三・六〇米のものを取りまぜ合計約一三本を前記耳沢山からその北方約五〇〇米離れた国道筋の小繋小学校長宅付近まで搬出して、物の運搬をし、

(三)、被告人山本清三郎および同立花金作は、立花甚四郎および鹿川稔と共謀のうえ、同年一〇月七日ころ大字小繋字新館林八七番の二所在の鹿志村亀吉所有にかかる俗にトイタナと称する森林において同人所有の杉立木約六本および檜立木一本を伐採して、これを窃取し、

(四)、被告人斎藤実および同藤本正利は、同年一〇月八日ころ大字小繋字小繋五三番地片野源次郎方において被告人山本清三郎および立花甚四郎から右両名らが(三)記載のように盗伐した杉を丸太にしたものの運搬方を依頼され、その情を知りながら、共謀のうえ、同日立花甚四郎らとともに杉丸太長さ一・八〇米のもの約一九本を前記トイタナ付近からその南方約五〇〇米離れた大字小繋字下平八〇番地立花五兵衛方製材所まで搬出して、物の運搬をし、

(五)、被告人山本満雄および同山本定蔵は、少年山本孝と共謀のうえ、同年一〇月一二日ころおよび翌一三日ころの両日にわたり前記耳沢山において、鹿志村亀吉所有の杉立木約一八本を伐採して、これを窃取し、

(六)、被告人小川市蔵は、同年一〇月一五日ころおよび翌一六日ころの両日にわたり、大字小繋字下平一〇五番の二所在の鹿志村亀吉所有にかかる俗に松坂道と称する森林において、同人所有の杉立木約五本を伐採して、これを窃取し、

(七)、被告人山本清三郎は、昭和三一年七月上旬ころから同年八月中旬ころまでの間数回にわたり、前記耳沢山において、鹿志村亀吉所有の杉立木約二〇本を伐採して、これを窃取し、

(八)、被告人小川市蔵は、同年八月上旬ころ、前記トイタナにおいて、鹿志村亀吉所有の杉立木約六本を伐採して、これを窃取し、

(九)、被告人山本清三郎は、同年八月中旬ころ数回にわたり、前記松坂道において、鹿志村亀吉所有の栗立木約六本、唐松立木約四本および赤松立木一本を伐採して、これを窃取し、

(一〇)、被告人小川市蔵は、同年八月下旬ころから同年九月中旬ころまでの間三回にわたり、前記松坂道において、鹿志村亀吉所有の唐松立木約五本を伐採して、これを窃取したものである。

(証拠の標目)≪省略≫

(法令の適用)

原裁判所の認定した罪となるべき事実中被告人山本清三郎、同小川市蔵、同立花金作および同山本満雄の第一の(二)の所為は、刑法第二三五条第二四二条第六〇条に、被告人山本満雄の第二の所為は、暴力行為等処罰に関する法律第一条第一項(刑法第二〇八条)罰金等臨時措置法第二条第一項第三条第一項に、当裁判所の認定した罪となるべき事実中被告人山本満雄および山本定蔵の第三の(一)(五)の各所為ならびに被告人山本清三郎および同立花金作の第三の(三)の所為は、森林法第一九七条罰金等臨時措置法第二条第一項刑法第六〇条に、被告人山本清三郎の第三の(七)(九)の各所為および被告人小川市蔵の第三の(六)(八)(一〇)の各所為は、森林法第一九七条罰金等臨時措置法第二条第一項に、被告人立花金作の第三の(二)の所為ならびに被告人斎藤実および同藤本正利の第三の(四)の所為は、森林法第二〇一条第二項罰金等臨時措置法第二条第一項刑法第六〇条に該当するので、第一の(二)を除くその余の各罪につきいずれも所定刑中懲役刑を選択し、被告人斎藤実および同藤本正利を除くその余の被告人五名の以上の各罪は、刑法第四五条前段の併合罪であるから、同法第四七条本文第一〇条により処断刑を定めることとし、被告人山本清三郎、同小川市蔵、同立花金作および同山本満雄を、最も重い第一の(二)の罪につき定めた刑に法定の加重をした刑期範囲内において各懲役一〇月に処し、被告人山本定蔵を重い第三の(一)の罪につき定めた刑に法定の加重をした刑期範囲内で懲役八月に処し、被告人斎藤実および同藤本正利を第三の(四)の罪の所定刑期範囲内で各懲役六月に処し、以上被告人七名に対し同法第二五条第一項を適用し、本裁判確定の日から二年間右各刑の執行を猶予し、原審ならびに当審における訴訟費用は、刑事訴訟法第一八一条第一項の趣旨に従い被告人らに負担させないこととする。なお、被告人山本清三郎、同小川市蔵、立花金作および同山本満雄に対する公訴事実中差押の標示を無効ならしめたとの点は、原判決の説明するとおり証明がないが、右は原判示第一の(二)の事実と観念的競合の関係にあるものとして起訴されたものと認められるから、この点につきとくに主文において無罪の言渡をしない。

よつて、主文のとおり判決する。

検察官 鶴田正三 出席

(裁判長裁判官 細野幸雄 裁判官 山田瑞夫 裁判官 有路不二男)

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